めんどり通信/2005年7月24日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 1:1
初めに、ことばがあった。 ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
★新約聖書 マルコによる福音書 4:24、25
また彼らに言われた。 「聞いていることによく注意しなさい。 あなたがたは、人に量って
あげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。
持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてし
まいます。」
●クリスチャンにとって聖書は、神のことば=神となっているだろうか。 そのように聖書のみこ
とばを受け取っているだろうか。 神のことばを、どう扱うかは、我々が神ご自身を、どう取り
扱ったかにつながるのである。 神のことば=神=キリストである。
もし、その人が本当に、聖書のことばを、神のことば=神=キリスト、として受け取っているな
ら、その神のことば(聖書のことば)は、その人の内で、生きて働いているはずである。 神の
みことばの不思議なことは、それを心に素直に受け入れていく人には、ますます恵みが、あふ
れて増加していくということである。 そうすると、人の力では、どうしても解決できなかった事柄
が解決したり、人知では、とうてい知ることのできない平安を体験することとなる。
★旧約聖書 エレミヤ書 17:9,10
人の心は何よりも陰険で、それは直らない。 だれが、それを知ることができよう。 わた
し、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行ないの実によって報いる。
●人の力では、どうしても解決できない事柄の最大のものは、人の心を心底からつくり変えるこ
とであろうと思われる。 なぜなら、人の心というものは、そんなに生やさしいものではない。
神から見れば、人の心は何よりも陰険で直らないというようなものである。 この心を直すこと
など不可能なのだ。 修繕はきかないのである。 修行したり、努力したり、苦労したりして、人
から見て変えられたと見られても、人の心の奥底を見られる神から見たら、修行では、努力で
は、苦労しただけでは、その人の心を全く変えることなどはできないものである。 振るわれれ
ば、やはり古き人が出てくるのである。
★新約聖書 ローマ人への手紙 6:4
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストととみ葬られたのです。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、
いのちにあって新しい歩みをするためです。
★新約聖書 エペソ人への手紙 4:22〜24
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く(あざむく)情欲に
よって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造
り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
●だから、その心を持つ古き人は、キリストとともに葬られる必要がある。 それは、神のよみ
がえりの命により、全く新しく生きるためである。 そうして、キリストにつながり、上からのもの、
新しいものを頂いていきながら、ますます新しい者として、実を結んでいくのである。 そうして、
神を知り(体験し)、キリストを知って(体験)いくのである。 それが永遠の御国へ向かって進ん
でいることでもある。 聖書のことばを、神として、キリストとして受け入れ、聖書のすべての真
理を受け入れていきたいものである。 自分の枡(ます)を大きく持ちたいものである。
★新約聖書 エペソ人への手紙 2:3〜5
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心
の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子ら
でした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の
中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かしーーあなたがたが救われたのは、た
だ恵みによるのです。−−