めんどり通信/2005年7月10日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 マルコによる福音書 5:19、20
しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰
り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださった
かを、知らせなさい。」 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてく
ださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。 人々はみな驚いた。
●マルコによる福音書の5章に悪霊から解放された人のことが記されている。 霊(悪霊)につ
かれた人が、イエスを見ると、イエスを拝して、私を苦しめないでください、と嘆願した。 主が
彼の内にいる悪霊に、出て行けと言われたからである。
霊はどっかにひっついていなければならないものであるようだ。 霊は人につく。 汚れた霊=
悪霊は、聖書でハエにたとえられているところがある。 霊につかれると ろくなことにならな
い。 クリスチャンであろうと未信者であろうと、霊につかれるとおかしくなる。
今ほど霊の力が働いている時代はない。 聖書によると、今後ますます悪霊の働きは強くなる
と思われる。 霊の問題は聖霊によってでしか解決されない。 霊の問題を解決することは、
現在において、また今後、人の様々な問題解決には不可欠となるであろう。 クリスチャン、教
会が取り扱う問題は、こんな問題を神から本当は託されているのだが、なかなかむずかしいも
のである。 霊の問題は 道理やら理論やらで解決されるものでないから、やっかいなのであ
る。 しかし、今でも多くの人が、霊に惑わされている。 異常な状態で表れたなら、皆にわかる
が、何か他の理由付けができる程度のことが多いと思われるので、見破ることがむずかしいの
が現状である。
しかし、主に真に従っている者には、必ず、主は教えてくださる。そして、霊の影響を受けて苦し
んでいる人が、真に求めているなら、必ず解放が与えられる。 また、信仰が成長していきなが
ら、我々の内にある自分の霊が強くなることを主に求め、また聖霊が我々の内に染み込んで
下さるならば、必ず強くなってくる。 我々の霊が強くなってくれば、主とともに悪しき霊の働きを
見破ることができるようになるばかりか、悪霊を制していくことができるようになる。 しかし、こ
れには訓練が必要である。 クリスチャンは、教会は、このために真に主に求めていくことが重
要である。
マルコの5書の人は、悪霊につかれ、墓場にいたり、自分の体を傷つけたりしていた。 自分
(その人)から出ているのではない。 その人はそんなことをしたくはない。 悪霊はその人の
意志さえ振り回す。
霊も主イエスの命令には従わなければならない。 霊は豚の中に入ることの許可をイエスから
得て、豚の中に乗り移った。 すると二千匹ほどの豚の群れは、がけから湖へなだれ落ちてお
ぼれ死んだ。 悪霊の目的は 人を滅ぼすことにある。 だから、悪しき霊から解放されなけれ
ば、死(滅び)に入っていく。
旧約聖書で動物などで、神が清いもの汚れたものに関しての規定をイスラエル人に与えた。
ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、反芻(はんすう)するものは清いから
食べてもよい。 反芻しても、ひづめが分かれていないもの、ひづめが分かれていても、反芻し
ないものは汚れているから食べてはいけないと規定した。 これはたとえで、ひづめが分かれ
るとは、この世との分離のこと、反芻(はんすう)するは、御言葉を何回々も繰り返し々、読む
ということである。 ひづめが分かれていないと、悪霊を見破れない。 惑わされる。 御言葉
を読まないと、神の基準がわからない。
★新約聖書 エペソ人への手紙 6:11、12
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさ
い。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者
たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
●どうして悪霊につかれるのか?やられるのか? はっきりしたことはわからないが、ひづめ
が分かれてはいるが、反芻(はんすう)しない、言わば、世のものを何でもガツガツ食べる雑食
性の豚のような歩みをしているクリスチャンなら、悪霊にやられてしまう。 しかし、それが悪霊
につかれる原因のすべてではない場合がある。 我々にはわからない様々な要因(生い立ち、
環境、性格・・・・)がからんでいる場合もあると思われる。 しかし、いずれにしても、神はすべ
てをご存知であられるし、神のみ許しがなければ、何一つ起こりえない。(マタイ10:29,30)
神が許されている以上、解決の道も神にある。 霊的なものは、主イエス(聖霊)によって解放
される。我々は、目の前の出来事に翻弄(ほんろう)されることなく、全能の神に、救い主イエ
ス・キリストに、悪霊を追い出していただき、悪霊の働きから守って下さるよう、求めていきたい
ものである。
★新約聖書 マルコによる福音書 16:16〜18
信じてバプテスマを受ける者は、救われます。 しかし、信じない者は罪に定められます。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。 すなわち、わたし(主イエス・キリスト)の名
によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害
を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。
●できれば、我々は、マルコによる福音書の5章のようにはなりたくないが、いろいろな経験を
するかもしれない。 しかし、そこから主が、いやしてくださった、助けてくださったということが、
あかしになる。 5章の彼も、みんなが彼が霊につかれていた、影響を受けていたことを知って
いた。 だから あかしになった。
我々は、(霊的に)雑食にならず、(教えなどを)吟味して食べていきたいものである。 世の中
のもの(本、テレビ、映画、教え、・・・・)には、聖書に照らして、主にあって吟味が必要である
が、キリスト教、教会さえも今や、吟味が必要な時代になってしまったようである。 しかし、食
べ物を吟味して、区分して、真に主から出たものだけを食べて、主に求めていき、ますます解
放と救いと恵みを体験し続けていきたいものである。
★新約聖書 第二コリント人への手紙 5:18
私たちは、目に見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一
時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
★新約聖書 第二コリント人への手紙 3:17、18
主は御霊(みたま)です。 そして、主の御霊のあるところには自由があります。 私たち
はみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から
栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。 これはまさに、御霊なる主の働き
によるのです。