めんどり通信/2005年6月26日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 マルコによる福音書 10:15
まことに、あなたがたに告げます。 子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに、はいることはできません。」
●マルコ10章やルカ18章、マタイ19章に子ども(幼子)とひとりの人(大人)が対照的に書か
れている。 子どもたちはイエスにさわっていただこうとして人々に、イエスのみもとに連れてき
てもらった。 ところが、弟子たちは彼らをしかった。 それに対してイエスは憤って、「子どもた
ちを、わたしのところに来させなさい。」と言われ、子どもたちはイエスの祝福を受けることがで
きた。 片や、ひとりの人(大人)は、永遠のいのちを自分のものとして受けるには、何をした
らいいのか、どんな良いことをしたらいいのか、と御前にひざまずいてイエスに尋ねた。 それ
に対してイエスは、戒めを守れ、と言われた。 このとき主イエスが言われた戒めは、十戒の
なかの5番〜10番目の内容だった。
十戒(出エジプト記)
@あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
Aあなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。(それらを拝んではならない)
Bあなたは、あなたの神、主の御名(みな)を、みだりに唱えてはならない。
C安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
Dあなたの父と母を敬え。
E殺してはならない。
F姦淫(かんいん)してはならない。
G盗んではならない。
Hあなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
Iあなたの隣人の家を欲しがってはならない。
十戒の最初の4つは神に対する我々の態度を、後の6つは人に対する態度を取り扱っている。
イエスはそれらを2つに圧縮された。 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神
である主を愛せよ。 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」である。
彼は戒めを守れと言われ、幼いときから守っています、と答えた。 確かに守ってきたのだろ
う。 イエスは「あなたは、守れていなかった。」とは言われなかった。 イエスは、守ってきた
と言う彼を見つめ、いつくしんで「あなたに欠けたことが一つある。帰ってあなたの持ち物をみ
な売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。そのうえだ、わ
たしについて来なさい。」と言われた。 しかし、多くの財産を持っていた彼は、悲しみながら
イエスのもとから去って行った。
ここで、主は我々が、子どものようになることを望んでおられる。 子どものようになるとは、自
分一人で行くことができない、主に頼っていかないと何もできない、ということである。 ここの
裕福な人は、自分で何でもできた。 律法を行なうことができ、行いにも富んでいた。 能力も
ある。 そういうことを、聖書では裕福、財産があるという言葉でたとえている。 しかし、行な
うことができていたと思われることでも、結局、完全ではなかった。 自分の力や能力では、
神の戒めを完全に守ることなどできないのだ。 肉の力(生まれつきの性格、性質)で行なった
場合、結局、肉(自分)を誇っている。 だから神のことばを差し出され、肉の限界を感じたとき
でも、へりくだることができず、主のもとを去っていくしかないと思われる。 そしてそれは永遠
のいのちを獲得できなかったことを意味する。 それで 主は、金持ちが神の国に入るよりは、
らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしいと言われるのである。 と言って、絶対、金持ち(才
能、能力などある人、何でもできる人)が神の国に入れないとは言われなかった。 我々から
判断すれば無理なことでも、イエスは仰せられた。 「それは人にはできないことですが、神は、
そうではありません。 どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10;27)
神の国に入るためには、子どものようになることは必須条件だが、そのために肉が削られる必
要がある。 子どものようにならなければ、神の国には到達できないと主イエスは言われるの
だが、多くの人が子どもの道ではなく、青年の道へ行っている。 だから神の国へ入るのは、
狭き門と言われるのである。
★旧約聖書 創世記 17:11、19
あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。 それが、わたしとあなたがた
の間の契約のしるしである。
すると神は仰せられた。 「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。 あな
たはその子をイサクと名づけなさい。 わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の子
孫のために永遠の契約とする。
★新約聖書 ローマ人への手紙 2:28,29
外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではあり
ません。 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊(みた
ま)による、心の割礼こそ割礼です。
●旧約時代のアブラハムに神は、神の選びの民のしるしとして、割礼の契約を設けられた。
この割礼は、今の我々にとっては、実際に肉を切り取るというのではなく、たとえとして教え
ている。 割礼は「心の割礼」のことである。 肉を切り捨てるとは、生まれつきの性質を捨て
(変えられて)、御霊の歩みに入れということである。 この心に割礼を受け、肉から切り離さ
れるか否かということは、その人がクリスチャンとして 神から祝福を受け、また天の御国に
入るための大きな重要ポイントである。 この肉を切り離された、子どものようになった人こそ、
永遠のいのちを受け継ぐ人々である。 大人(肉がしっかりある状態)では、ある程度のところ
までしか行けない。 中には肉のゆえに、この青年のように、そこまでも行けない者が多いの
ではなかろうか。 しかし、行けたとしても、天の御国へは聖霊によらなければ、誰も行くことは
できないのである。 そのため、まず、主イエス・キリスト様を神として、救い主として受け入れ
ることが重要である。 次に、受け入れて もう安心というわけではない。 子どものようにされ
なければ誰も天の神の国に入れないのである。
我々は、主イエス・キリストを信じ、心の中の肉を切り取り、肉を脱却し、また、肉の歩みを離
れ、聖霊に導かれた歩みへと入るべきである。 主に祈り求める者は、その歩みへと入れてく
ださるであろう。 そうすると、神がその人を子どものようにするために働いてくださる。 多くの
失敗をしながら、砕かれながら、神によって子どものようにされるのである。
★旧約聖書 申命記 30:6
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心
を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。