めんどり通信/2005年5月8日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 第一コリント人への手紙 15:16〜19
もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。 そして、もし
キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今も
なお、自分の罪の中にいるのです。 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、
滅んでしまったのです。 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いてい
るだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
★新約聖書 第一コリント人への手紙 15:32〜34
・・・もし、死者の復活がないななら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではない
か。」ということになるのです。 思い違いをしてはいけません。・・・・目をさまして、正し
い生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいま
す。・・・・
●創世記でヤコブは墓(どこの葬られるか)にこだわったことが記されている。 ヤコブは、地上
生活に関しては、こだわっていなかった。 地上では自分は旅人、寄留者としての自覚が十分
あったからである。ヤコブのこの物語は、霊的なたとえとして、今日の我々に神が教えようとさ
れていることがある。
墓は死後の世界の入り口であり、墓にこだわることは、死後の世界、どこにいるかに関わる。
ヤコブのことを通して神が言われることは、永遠の命を得ることにこだわれ!ということであ
る。 人は目に見えるものに左右され、影響を受けがちである。 しかし、目に見えるものは
限りが・り、過ぎ去るものである。
永遠のことについては(死後のこと)、目に見えないことであるが、これは実際なのである。
人間は このことについて様々なかたちで追求してきた。 その表れが宗教と言えるかもし
れない。
また、やっかいなことに 目に見えないので、因縁やたたりがあるとかなんとかで、
多くの人が騙されて高額なお金を失い、失望し、傷ついてきたことも事実であろう。
確かに 人は死んだら終わりではない。 死んだら何もわからなくなり 存在がなくなるわけ
ではない。
このことについては、宗教だけではなく、科学や統計など様々な分野でも調査さ
れてきた。 結果、天下のNHKも
もうすでに10年以上前だったか、発表したのである。 「死
後の霊魂の存続が証明された」と。 しかし、この重要事項は、世の様々な流行物のように
は、日本人の中に広がっていかない。
聖書は、後の世界について(死後の世界)大きなポイントを置いている。 聖書が言わんと
していることは、人の究極の目的は、永遠の命を得る!ということである。
もちろん、この地上で、活き活き生きていくことは大切なことであるが、考えてみれば、
この地上では、たかだか何十年のことである。 永遠の中のたった長くても百年位、いや、
人にとって、力いっぱい活き活きと好きなことができる成熟期を言えば、30,40年位ではなか
ろうか。(個人差はあるが) 永遠の中の数十年である。 神が言わんとしていることは、
人の地上生活は旅人、寄留者であり、永遠への準備期間であるということである。
しかし、多くの人が、肉体の死が最終ゴールで、死んだら終わりと思い込んでいる。 アダムと
エバの時からのサタン(悪魔)の策略は、人間の間で成功していると言えよう。 しかし、おか
しなものである。 そう言いながら、思いながら、死ぬのが怖いと言う。 何もわからなくな
って、何の記憶もなくなるのであるなら、そフ時は、怖いという感情もないはずである。 しか
し、怖いと言う。 また、どこへ行くかが、はっきりわからないから怖いと言う人もいる。 これ
は確かにそうであろう。 だから、多くの宗教が人に影響を与えてきた。
人はその宗教の成り立ちやそれが本当に信頼すべきものであるかなどに気をとめず、た
だ、ひたすら、その恐怖から逃れようとする為、まんまとだまされる。 オウム真理教のよう
に異常だ、おかしいとなれば、皆、警戒するが、昔から多くの人が携わってきたことや他に
迷惑をかけないと判断されることに関しては、何ら疑問も持たず、それを教える人を吟味もせ
ず信頼し、拝む対象物が真実か真理か偽者かとんでもないやつなのかなど確かめようとも
しない。 背後にまさかサタンが控えているなどと考える人など一人もいない。 サタンの目
的が、自分がやがて神によって行かされる地獄へ、一人でも多くの者を一緒に連れて
行くことであることを知っていたなら・・・・・。
★新約聖書 第二コリント人への手紙 5:9〜11
そいうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところ
は、主に喜ばれることです。 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、
善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるか
らです。 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しよ
うとするのです。・・・・
★新約聖書 マタイによる福音書 10:28
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなど恐れてはなりません。 そんなものより、
たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできるお方を恐れなさい。
●たとえキリスト教と言えども、人に影響されては それは他の宗教と同じことであろう。
悲惨さを見るだけである。
我々人は、本来全能の神によって造られた者である。 そして、我々人は、皆罪人である。
そして、罪人の行き先は、悪魔と同じところ、ゲヘナ(永遠の地獄)である。 その人が認めよ
うが認めまいが、神はそう言われる。
★新約聖書 第二テモテ人への手紙 1:10
・・・キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
●しかし、神は哀れみ深いお方である。 人が 地獄へ行かなくていいように、救いを与えてく
ださった。 御子イエス・キリスト様を遣わして下さった。 イエス・キリスト様は 我々の罪を
我らの身代わりとなられて受けて下さり、十字架で死というかたちで罪を処分して下さった。
だから、私の罪のためにも主は十字架で死んで下さった、自分は罪人であることを認めて、神
に悔い改め、主イエス・キリスト様を信じる(受け入れる)なら、救われるという道、本当にある
天の御国への道を開いて下さった。 また、主は十字架で、人間の敵であった死(肉体の死で
はなく、肉体が死んだ後の滅び)をも滅ぼしてくださった。 だから、主イエス・キリストを信じる
者には、新しい体(朽ちない栄光の)が与えられる約束を与えてくださるのである。
★新約聖書 第一コリント人への手紙 15:44
・・・血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
●だから、真のクリスチャンなら、神からの恵み、祝福を体験し、また祈りに答えられることに
より、肉眼では見えないが、主が生きておられることを体験し、主イエス・キリストを知る(悟る)
ので、死の恐怖から解放されているのである。
数年前、津和野へ行った時、乙女峠というクリスチャンの殉教後地へ寄った。 そこに当時5歳
のもりちゃん(少女)について記した資料があった。 多くのクリスチャンが長崎から日本海近く
の寒い津和野へ送られてきた。 拷問につぐ拷問で多くの人が殉教した。 そこの役人がまだ
5歳の少女をあわれに思い、自分の部屋につれて来て、お菓子を差し出した。 「欲しいか?」
「うん。」もりちゃんは、ほとんど食事を与えられておらず、飢えていた。「じゃあ、イエス様嫌い、
と言いなさい。 心では信じていていいのだよ。 口で一言言えば、それだけで、このお菓子が
食べれるよ。」すると、「いやっ。 お母さんがイエス様のところにはもっとおいしいものが、ある
って教えてくれた。イエス様好き。」・・・・もりちゃんは1,2週間後、飢えのため殉教した。 こ
の役人は後ほど、5歳の少女により(霊の)目が開かれ、真の神がおられる、主イエス・キリス
トは生きておられる、永遠の命があることを知って、牧師になったと言う。
5歳の子でも永遠があることを知ることができる。 5歳でも死の恐怖から解放されている。
それは、真の神を素直に受け入れたからだ。 偶像に惑わされず、心を奪われず、主イエス・
キリスト様を、真の神と単純に信じていたからだ。 たぶん同じく殉教した親も祈っていたこと
であろう。 また、もりちゃんも 幼いながら「イエス様、好き。」と祈っていたであろう。 主は、
心からの祈りを聞いて下さる。 主に純粋に寄りすがる者に、神の恵みを与えて下さる。
★旧約聖書 レビ記 19:4
あなたがたは偶像に心を移してはならない。 また自分たちのために鋳物の神々を造って
はならない。 わたしはあなたがたの神、主である。
★旧約聖書 ヨナ書 2:8
むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。
●我々は、自分に問うてみるべきである。 私はどこへ行こうとしているのか。 決めるのは、
その人自身である。 自由意志は、神も悪魔も直接触れることはできない。 他の人も強要
できない。 その人に任されているのだから。 あわれみ深い神の願いは、「あなたはいの
ちを選びなさい。」そして、永遠に「生きよ!」である。
★旧約聖書 申命記 30:19
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。 私は、いのちと死、祝福
とのろいを、あなたの前に置く。 あなたはいのちを選びなさい。