めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年5月29日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ヨハネによる福音書 20:27、29
   それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸
   ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
   イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。 見ずに信じる者
   は幸いです。」

●モーセに引き連れられて、奴隷にされていたエジプトから脱出して40年間、イスラエル人
は、荒野で様々な神のしるしと不思議を見、奇跡を体験した。 しかし申命記29:3,4「主
は、今日に至るまで、あなたがたに悟る心と、見る目と、聞く耳を下さらなかった。」
とある。
人間というものは、何か不思議やしるし、奇跡が起きると それに注目し、心を奪われがちにな
る。 それは表面的な目に見える事がらであり、人間の五感を刺激することであるからだ。 し
かし、その事がらの意図や出所など目に見えない部分には、案外、無頓着である。 だから、
悪霊の思う壺でもあり、ひっかかりやすいのかもしれない。 

神が40年間、イスラエル人に対して、しるしや不思議を行ったのは、彼らが神の臨在をはっき
りと認識し、他の神々(偶像)に仕えることなく、心を尽くし、精神を尽くして神の御声に聞き従い
、いのちの道を歩むためであった。

しかし、イスラエル人はモーセの死後、堕落して、神の道から離れ、様々な災いにあうことと
なった。 結局、しるしや不思議を見、奇跡を体験しても、心がかたくななゆえに、真に悟ること
ができなかったのである。 彼らの、神を信じているというのは、すぐに真の神から離れてしまう
ような程度だったのである。 しかし、あわれみ深い神は、イスラエル人を見放さず、彼等が神
に立ち返るよう働かれたのである。(ローマ人11章)
人が生きていく上で、表面的に目に見えることよりも、目に見えない部分の方が重要というこ
とがあるのである。  

★新約聖書 マルコによる福音書 8:29
   するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言います
   か。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」

★新約聖書 マタイによる福音書 16:16,17
   シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは生ける神の子キリストです。」 
   するとイエスは、彼らに答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このこと
   をあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」

●同じ聖書を読んでも、悟るということがなければ、理解できたと思われることも、結局、人の
考え、理解にすぎない。 当時ペテロをはじめ、ユダヤ人達は、旧約聖書をもってキリストの預
言を読み取っていた。 その中でペテロたち弟子は、神の啓示により、自分でイエスをキリスト
(救い主)と理解できた。 確かに聖書のあのことば、このことばが、これで成就したと見ること
ができるのは、神の啓示による。

しかし、気をつけねばならないことは、一度、神の啓示があれば、もうすべて大丈夫というわけ
ではない。 クリスチャンと言えども、神が啓示を与えようとするのを妨げることがある。 主が
十字架にかけられる前、弟子達に「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法
学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえられなければならない。」
と教え始められ
ると、ペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。 それに対し、イエスは「下がれ。
サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」としかられた。(マルコ9章)

人間的な考えで、神の道を妨げることがある。 だから、主に絶えず尋ね求め、祈って、悟りを
与え続けていただく必要がある。 

人間的な考えで神の道を妨げている事実が、カトリックにある。 カトリックは、神のことを思わ
ず、人のことを思っている。 カトリックのいう地獄は、・なたの心の中のことであって実際には
ない、どの宗教からでも神に至るなどは、明らかに人の考えである。 

マザー・テレサは、目の前の死にゆく人に、キリストを伝えようとしなかった。 イスラム教徒の
人にはイスラム教で葬り、ヒンズー教徒の人にはヒンズー教で葬った。 そして、自分は、神か
ら隔てられていて救われていないと、親しい神父に手紙を斯くとい有り様。 

ローマ・カトリックはキリスト教であってキリスト教ではない。 カトリックのローマ法王は、ペテロ
の後継者と言っているが、イエス様は「サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っ
ている。」と、ペテロだけにしかったのではなく、預言的にカトリックにも言っているのかもしれな
い。 ペテロは、悔い改め、主の訓練を受け、殉教するときには、主と同じ十字架ではもったい
ない、逆さにしてくれ、と逆さ十字架に掛けられて殉教した。 今、カトリックはエキュメニカル運
動に精を出し、進化論を受け入れ、地獄はないなどと聖書に反すること、背教への道を進んで
いる。 これでは、もうペテロの後継者などと言えないであろう。

★新約聖書 第一ペテロの手紙 1:8
   あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけ
   れども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

★新約聖書 第二コリントの手紙 3:14、16,17
   しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。 というのは、今日に至るまで、
   い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいませ
   ん。 同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。 なぜなら、それは
   キリストによって取り除かれるものだからです。
   しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
   主は御霊(みたま)です。 そして、主の御霊のあるところには自由があります。

●「・・・。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいます
わたしの父です。」と、常に主から語られたいものである。