めんどり通信/2005年5月22日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 エペソ人への手紙 1:17
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と
啓示(けいじ)の御霊(みたま)を、あなたがたに与えてくださいますように、
●人間的に見れば、、クリスチャンと呼ばれる人よりも「あの人はできた人」と言われる人の
方が案外、多いかもしれない。 しかし、神から見れば、片方は、さばかれるべき罪人(つ
みびと)、もう片方は救われた罪人である。 クリスチャンは、イエス・キリストの十字架の血に
より、罪が赦(ゆる)された者であるが、だからと言って、世で言う「人間ができた人」ではな
い。 クリスチャンになったから、その時点で「人間ができた」というのでもない。 神は、クリ
スチャンが失敗することを許されている。 クリスチャンでも、罪を犯すことがある。 例えば、
憤り、怒り、ねたみ、陰口、そしり、高ぶり、争い、悪い思いなど、そういった類を日常生活の
中で行ってしまった、思ってしまったということが、多々ある。 (ガラテヤ5:19〜、Uコリント
12:20、ローマ1:29〜等)
しかし、その時、神の御前にへりくだって、悔い改め、清められるよう、変えられるよう、祈るの
がクリスチャンである。 祈りは必ず、答えられる。 神は生きておられるからである。 また、
約束しておられるからである。 台所の些細(ささい)なことから、大きい事柄、大事件まで。
精神科医が直すのに 四苦八苦している病まで。 神に求めるならば、神が一番よいと思われ
る時に、答えてくださり、いやしてくださる。
★新約聖書 ヨハネによる福音書 16:24
あなたがたは今まで、何もわたしの名(主イエス・キリスト)によって求めたことはありませ
ん。 求めなさい。 そうすれば受けるのです。 それはあなたがたの喜びが満ち満ちた
ものとなるためです。
★新約聖書 第一ヨハネ 5:14
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、
これこそ神に対する私たちの確信です。
●イエス・キリストを信じた者が、祈って答えられたという体験や確信がないのは、果たして、
自分は本当に主イエスを信じているのか、また自分のうちにイエスの信仰をいただいている
のか吟味してみる必要がある。 また、祈ったことがないというのであれば、それはもはや
クリスチャンとは言えない。 祈って答えられたという経験が何度も積み重なってきて、主イ
エス・キリストは生きておられる、聖霊は働いておられるとわかるのである。
祈っていても答えられなくて、苦しみの中から抜け出せないのは、以前テレビで見たカトリッ
クの巡礼(じゅんれい)をしていた青年のようだ。 苦しみが足りないからと行いを重視し、そ
のあらわれの一つの行為としてバチカンのローマ法王が拝見できるところまで、ひざで歩く。血
がにじんで 苦しければ神に喜ばれると思っている。 そして、ローマ法王を主イエス・キリスト
に置き換えて拝するが、彼の心は苦しみから抜け出すことができない。 その姿は神から見た
ら、クリスチャンではない。 しかし、カトリックの中にも悪魔、悪霊に惑(まど)わされないで、純
粋に、イエスが真にキリスト(救い主)と信じるような行動、思いをもつ者もわずかながら、いる
であろうが、そういう人はカトリックの中には留まっていることができないはずである。 カトリッ
クを出たか、まだ出ていない者は、神がいずれ出されるであろう。 それは追い出されるという
形かもしれない。
★新約聖書 第一コリント人への手紙 3:18〜20
誰も自分を欺(あざむ)いてはいけません。 もしあなたがたの中で、自分は今の世の知
者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。 なぜなら、この世の知
恵は、神の御前(みまえ)では愚(おろ)かだからです。 こう書いてあります。 「神は、
知者どもを彼らの悪賢さの中で捕(とら)える。」 また、次のようにも書いてあります。
「主は、知者の論議を無益(むえき)だと知っておられる。」
★新約聖書 ヨハネによる福音書 1:1
初めに、ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。
●神は、この世の知恵を聖書の解釈の中に持ち込み、神のことばを人間的なもの、この世的
なものにしてしまう者を憎んでおられる。 神は、神のことばを曲げることと曲げる知者を憎んで
おられる。 なぜなら、ことば=神であるからだ。 神のことばという時、英語では単数で出てく
る。(word) これは、神のことばは一人の生きた方という意味がある。 「神は、知者どもを彼
らの悪賢(わるがしこ)さの中で捕(とら)える。」とあるが、神はこの世の知恵を用いて神のこと
ばを曲げる知者を憎み、彼らを捕え、報復(ほうふく)することを計画しているということである。
マザーテレサは、この世からは、すばらしい人、「人間ができた人」と言われている。カトリック
の中でも、福者(ふくしゃ)になった。 病気になった人がマザーテレサを拝むと病気が直ったと
いうカトリック信者が2,3人現れて、異例の早さで出世したという。 カトリックもここまで落ち
た。 プロテスタントも変質してきたが、カトリックの堕落ぶりは、今に始まったことではないにし
ても、その堕落、変質は甚(はなは)だしい。 神のことばをこの世の知恵で、この世が気に入
るように、すりかえている。 その後をプロテスタントも追随している。 エキュメニカル(世的)
運動は、カトリック、プロテスタントの互いに違う教理には目をつむり、一つになるという働きで
ある。 世界は確実に一つになろうと、動いているようである。 国連が中心になるのであろう
か? これは神のことばとは、違う、聖書にことばを曲げた働きである。 しかし、世界的に、
日本でもすすみ出した。
聖書に神がこのような堕落、変質した教会、クリスチャンを裁くとあるが、この現状では当然
であろう。 だから、神から見られたクリスチャン、教会でなければ、共にさばかれてしまう。
目を覚まさなければならない時は、すでに来ている。 主に「神を知るための知恵と啓示(けい
じ)の御霊(みたま)を」与えてくださるよう、祈っていきたいものである。