めんどり通信/2005年4月3日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 マルコによる福音書 6;49〜51
しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声
をあげた。 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。 しかし、イエス
はすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。 彼らの心中の驚きは非常なものであった。
●マルコによる福音書の6章で、こんな話しが記されている。 イエスが弟子たちを強いて舟に
乗り込ませ、湖を渡って先に向こう岸のベツサイダへ行かせ、ご自分は祈るために、山の方へ
行かれた。 弟子たちが乗った舟は夕方、湖の真ん中まで来ていた。 しかし、夜中の3時頃、
向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれ
たが,そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。 弟子たちは、まさか湖の上を人は
歩けまいと、イエスを幽霊と思い、叫び声をあげた。 しかし、イエスは「しっかりしなさい。わた
しだ。恐れることはない。」と言われ、舟に乗り込まれると、風はやんだ、という話しである。
聖書は神の霊感により書かれたものであるが、主は多くをたとえとして記されている。 ここで
も舟は教会(クリスチャンの集まり)をあらわすが、舟(教会)は水(聖霊)の中を進んで行く。
しかし、神の御心であればあるほど妨害が来る。 向かい風=霊の妨害である。 人生、何事
もなくスムーズに過ごしたいと思うのが、我々人の考え、願いではある。 しかし、「若いときの
苦労はかってでもせよ。」とか「苦労していない人は、人間ができてない」とか、よく言われるが、
本当はどこかで、人は鍛えられることが必要だと、案外知っているものだ。 しかし、例えば、
子どもに苦労をさせたくないと思う親心も、本音は苦労している、鍛えられている子の姿を見る
のを、親の方がつらいと、自分をかばっているのではないだろうか。 子のことを思うと言うよ
り、以外と自分のことしか考えていないのかもしれない。
★新約聖書 ヘブル人への手紙 12;10,11
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのです
が、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らし
めるのです。 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思わ
れるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせま
す。
●本当に子のことを考えるなら、子を鍛えることを親はしないだろうか。 鍛えられている子を
見て、つらくても、苦しくても、子の為にその姿を見守ってやり、導いてやるのが、真の親と
いうものであろう。 わしは子を飛ばそうと崖の上から突き落とすというのを聞いたことがある。
子わしは必死に羽をはばたいて飛ぼうとする。 親わしは、谷の底の方で羽を広げてゆっくり
と舞っているという。 もし子が失敗しても子が死なないように受け止める体勢をとっているの
だ。 これが、真の親の愛であろう。 我々の父なる神も同じである。
★新約聖書 ヨハネによる福音書 5;19
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができま
せん。 父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」
★新約聖書 ヨハネによる福音書 16;33
・・あなたがたは、世にあっては患難(悩み)があります。しかし、勇敢でありなさい。わたし
はすでに世に勝ったのです。
●この地上生活何事もなく、何の問題もなかったから幸せとは言えない。 また、多かれ少な
かれ、この地上に生きている以上、何かしら皆問題をかかえているものである。 この地上生
活で、何の悩みもないという人は、おそらくいないのではないだろうか。 主は、そういう我々の
ことをよくご存知で、我々が、地上生活で何かあっても、それを正しく乗り越え、また、神の御
心のままに歩んで行くことができるために、主ご自身が、先にその道を備えてくださった。 主
イエスは、この地上におられたときに、神のひとり子であられながら、ご自分では自らは何もさ
れず、すべて聖霊の導かれるまま、父の御心のままに歩まれた。 本当は主はご自身で何で
もできたはずである。 しかし、我々に模範を示すために、我々が、聖霊に導かれて歩むとい
う模範を示すために、あえてそうしてくださったのである。 主が舟に乗られたなら、風はやむ!
どんなときでも、どんなことがあろうとも我々が、主に頼るなら、風(霊の妨害)はやむのであ
る! しかし、人間、いざとなったとき、案外、主に頼っているつもりでも、主に頼るということが
できないことがある。 内にある自我や自分でも気づいていない罪やら、何やら、主に頼るの
に邪魔するものがあるからである。 頼っていたと思っても、頼りきれていないということがあ
る。 また、何事も神の支配の御手にゆだねたとしても、神が事を成して下さるのを待てなかっ
たりする。 しかし、主に頼る者は、神が、そういうもの諸々を処分して下さり、神の御業があら
われるようにして下さる。 我々にできることは、ひたすら、主に頼ることである!祈ることであ
る!! だから、何があっても神に信頼し、祈る者は幸いである。 必ず、主に祈り求めている
なら、神が事を成してくださり、御業をあらわしてくださるからである。 大切なことは途中経過
ではなく、結果である。 その結果を期待する、主に期待することである。 そうすれば、風は
やむのである。 そして、鍛えられて、主にあって強くなっていくのである。
★新約聖書 ヘブル人への手紙 12;1、2
というわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですか
ら、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競
走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 信仰の創始者であり、完成者であるイ
エスから目を離さないでいなさい。
★新約聖書 ローマ人への手紙 5;1〜5
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神
との平和を持っています。・・・・・そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。 それは、
患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出
すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。 なぜなら、私た
ちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。