めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年4月24日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1:4
   キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のために、ご自身
   をお捨てになりました。 私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

★新約聖書 ヤコブの手紙 4:4
   貞操のない人たち。 世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。
   世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

●旧約聖書 創世記12章にこんな話しが記されている。 アブラハムと妻サラが、激しい飢き
んのため、エジプトへ下って行った。 その時、アブラハムは、サラが美しかったので、エジプト
人には、自分を兄と言うように頼んだ。 当時、エジプトでは権力のある君侯たちは、美しい婦
人を召し上げて、その夫を殺してしまう慣習があった。 また、サラが妹ということも、全くの虚
言でもなかった。 2人は異母兄弟であった。 当時、近親結婚は家族数が増えて選択範囲
が広くなるまで、古代ではありふれたことだった。 そうして2人はエジプトに入っていくと、やは
りエジプト人は、サラの美しさに惹かれた。 そのうわさが、パロ王の耳に入り、サラは、宮廷
に召し入れられた。 パロはサラの兄というのでアブラハムによくしてやったが、主は、アブラハ
ムの妻サラのことで、パロとその家をひどい災害で痛めつけた。 パロはアブラハムとサラと、
彼のすべての所有物とともに送り出したという話しである。

聖書に出てくる地名や人名他、聖書の中に出てくる言葉には、すべて意味がある。 エジプト
もこの世やこの世についたクリスチャンをあらわす。 ここでは妻サラは教会を表す。 本来、
クリスチャンがエジプトに住む(心の第一拠点にする)ことは神のみこころではない。 だから、
聖書はクリスチャンはこの世では旅人であるという。 

さて、アブラハムもその子イサクも飢きんのゆえに、エジプトに下った。 真の食べ物であるパ
ン、みことばが飢きんにより結果として、仕方なく、エジプト、すなわち、この世のものを食べる
ということもある。 例えば、今の教会でも、この世の教えである、積極的思考とか、セルフイ
メージだとか、わけのわからないものが、神の民の腹を満たしている。 決して、これは神の
みこころではない。

サラが美人として有名になってしまったように、教会はこの世において、うるわしく誉れの高い
存在となっている。 この世は教会を何か麗しいものと見なし、ほめはするが、肝心の夫、すな
わち、キリストはこの世においては殺され「ことばは神である」と言われた方のことばは、この世
においてはないがしろにされている。 この世は教会の麗しさ(外側)を見るが、キリストを殺す
のである。 この世は教会のよさに惹かれるが、決してキリストに触れているわけではない。
エジプト化(この世についた教会)したカトリック教会などは、エキュメニカル(この世)運動を推
し進めて、ますますキリスト教会をこの世化して神の御心から、はずれさせている。 今や多く
のプロテスタント教会も賛同している有り様。 どこまで神に敵対する気であろうか。 神を恐
れるべきである。 

キリストによる罪のあがない、ことばを信じて永遠の命を得るということは、世の中の新聞には
載らないし、また論議も関心も呼ばないが、妻の麗しさ、すなわちキリスト教的な雰囲気の中で
の博愛やら、慈愛やら、社会活動やらは大いにこの世からは、麗しいものと慕われている。 

今の教会は妻の立場から大分ずれているが、人間的な言い方をするなら、キリストの名前が
今に至るまでも、世界の偉人として伝えられ、21世紀の今に至るまで、その評判がよいのは、
教会が、キリストの名を伝えたからということは言えるだろう。

しかし、やはり聖書のことばはその通りになる。 サラがパロの宮廷に召し入れられたというこ
とは、教会はこの世の奥の奥まで入っていくことの警告である。 エジプト(この世)の王に気に
入られ、羊や牛などの所有物が増えるのは、この世の庇護の下でのことだから、良いとも言え
ず、悪いとも言えず・・・というところだろうか。 かつてキリスト教会は、初期の頃、ローマで多く
の殉教者があった。 しかし、321年ローマ帝国の国教となり、この世の庇護の下に入った。
その結果、信者は増えたが、教会も俗化した。 そのなれの果てが、ローマカトリックである。

エジプトの王がアブラハムの妻サラを召し入れることは神の御心ではなかったように、教会が、
この世と姦淫を犯すことは御心にかなわない。 教会がこの世(エジプト)についたらいけない
のである。教会がこの世につくなら さばきを受ける。 本来、教会、クリスチャンは汚れたもの
から離れているべきである。 しかし、どうしても汚れる。 だから、日々、聖霊の清い水によっ
て洗われる必要がある。祈りによって、聖霊に触れていただく必要がある。 日々、絶えず、
祈って聖霊に触れていただきたいものである。

★新約聖書 第二コリント人への手紙 6:16〜18
   神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。 私たちは生ける神の宮なのです。 神は
   こう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。 わたしは彼らの神となり、彼ら
   はわたしの民となる。 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われ
   る。 汚れたものに触れないようにせよ。 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
   わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言
   われる。」

★新約聖書 コロサイ人への手紙 2:6〜9
   あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みな
   さい。 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれ
   るばかり感謝しなさい。 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬ
   よう、注意しなさい。 そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する
   幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。 キリストのうちに
   こそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。