めんどり通信/2005年4月17日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 第一コリント人への手紙 1:26〜29
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。 この世の知者は多くはなく、
権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。 しかし神は、知恵ある者をはず
かしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱
い者を選ばれたのです。 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は
選ばれたのです。 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
★新約聖書 ピリピ人への手紙 3:12〜14
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。 ただ捕らえ
ようとして、追求しているのです。 そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕ら
えてくださったのです。 兄弟たちよ。 私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいま
せん。 ただ、この一事に励んでいます。 すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前
のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため
に、目標を目ざして一心に走っているのです。
●クリスチャンとはどういう者であろうかと考えてみた。 クリスチャンの意味は、ギリシャ語で
キリストにある者、キリストに従う者である。 未信者の人から見たら、クリスチャンは神に従う
者である、と本当に見えているのであろうか。 どうも そうのようには思われない。 一般的
なクリスチャンのイメージは、物事の道理のよくわかった人、がまん強い人、やさしい人、人
間ができた人・・・などが多いのではないだろうか。
しかし、本当はクリスチャンは不完全な者である。 いや、不完全な者だからクリスチャンになっ
た。 そして、クリスチャンになっても、やはり、まだまだ不完全な者である。 我々は、日々の
生活でよく失敗し、争い、ねたみ、怒り、そしってしまうことがある。 そうして、傷つき、落ち込
む。 しかし、よく考えてみると、不完全な者なら、愚かな者なら、そんなことは当然のことかもし
れない。 ただ、そのようなときに、反省しても直らないし、自分の思いをコントロールもできな
い者であることを知ったのがクリスチャンと言えるのかもしれない。 だから主イエス・キリスト
に寄りすがることができるのである。
失敗する、争う、怒る、そしる、・・・等など。 そうしたとき、落ち込む人あり、気分転換してその
嫌な思い、苦しみから逃れようとする人あり、誰かに話して、うっぷんをはらしてスッキリする人
あり、と様々であろう。 落ち込むこともよし、気分転換することもよし、誰かに話して(聖書には
人の徳を養うのに役立つ言葉を話せとあるが、そこまでに至っていなくても、このときの段階で
は、そこに至るまでの途中過程であるから、誰かに言うのもよし)スッキリすることもよし・・・。
しかし、その後が肝心である。 落ち込んでも、気分転換しても、誰かに話しても、真の解決と
はならない。 むしろ、自分の罪の升目を増やすだけである。 それで、どうして神の御前に
立ったとき、言い逃れができようか。 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが
定まっているのである。(ヘブル9:27)
我々の内から出てきたものを、その人がどうするのかを、神は見ておられる。 そのようなもの
が出てきた時、どいう態度をとるかを見ておられる。 そのようなものが我々の内から出てくる
ことを、神はよしとされる。 多くの人は、失敗したり、ねたんだり、怒ったり、争ったりなどした
ときに、落ち込み傷つくので、気分転換したり、反省して今度からは気をつけようと自分に言い
聞かせたり、直そうと考えたり等するのではないだろうか。 このことが決して悪いことではな
い。 だが、これらは人の方法であって、神の方法、聖書の方法とは違う。 主は、言われる。
「わたしのもとに来なさい!」「そのままの状態で来たれ!」「わたしの前で、ひざをかがめよ!
(悔い改めを表す)」 「わたしに聞け!」「そうすれば、わたし(イエス・キリスト)の十字架で流
した血により、あなたをゆるす! また、わたしの恵みと祝福とキリストの性質に預からせる!」
と。 これが神の方法、福音である!!
★新約聖書 マタイによる福音書 11:28〜30
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなた
がたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたし
のくびきを負って、わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます。 わた
しのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
★新約聖書 第一ヨハネの手紙 1:9
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、
すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
●そうして、我らは、やがて行なわれる神の裁きから逃れられるのである。 昨今のキリスト
教会では、一度、主イエスを信じて神の子となれば、救われる。 だから地上では、自分の思
い通り生きたっていい、罪を犯してそのままでも、自分の好き勝手に生きても、一度イエス様を
信じているのだから大丈夫、御国(天国)へ行けるなどと、まるっきり聖書と違うことを教えてい
ると聞いたことがある。 また、そういう教会が多いという。 そんなことを教える指導者たちは、
必ず聖書の言葉通り、厳しいさばきを受けるだろう。(ヤコブの手紙3章)
確かに主イエス・キリストは私の罪のために死なれ、3日目によみがえられて今も生きておられ
る、と信じてクリスチャンとしてのスタートをきった。 と言って、すぐに完全になるのではない。
我々はまだまだ不完全な者なのだ。 あのパウロがそう言っている。(ピリピ人への手紙 3:1
2〜14) ならば、我々のような者は、尚更、不完全な者ではないかと普通は思うであろう。
★新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13〜18
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。 約束のものを手に入れることはあ
りませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であること
を告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていること
を示しています。 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあった
でしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい
たのです。 それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。 事実、
神は彼らのために都を用意しておられました。
●クリスチャン生活とは、この世で旅人として生活することである。 日本では昔、わらじを履い
て旅をしたが、1日歩いただけで、宿屋に上るとき、足を洗わねばならないほど、ほこりで汚れ
た。 クリスチャンとしてのこの世の旅路でも同じように、やはり足が この世の欲、嫉み、争
い、憤り、悪口などというほこりで心が汚れてしまうのである。 でも肝心なことは、主のところ
にかえることである! 主のところに行くことである! 聖霊の水で洗っていただくことである!
そして、神の恵み、祝福を頂いて変えられて元気が出ることである! その為、祈り、祈り、
祈るのである! そして、ゴールに向かって歩みを進めるのだ。 主によりすがる者を、主は
必ず導いて下さる。 主をほめたたえよう。