めんどり通信/2005年3月20日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! |
★新約聖書 ルカによる福音書 5;32
そこでイエスは言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは
正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
★新約聖書 ルカによる福音書 19;9,10
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子な
のですから。 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
●ルカによる福音書19章にザアカイという人のことが記されている。 簡単に記せば、こういう
ことである。 エリコの町にザアカイというユダヤ人の取税人がいた。 当時イスラエルは、ロー
マの属国だった。 ザアカイはローマの手下として働いているばかりか、取税人のかしらという
立場を利用して、決められた以上の多くの取立てをして財を成し、金持ちだったので嫌われ者
だった。 ある日、うわさのイエス様が、エリコの町を通られるというので、見に出かけた。 もう
すでに、多くの群衆が見に来ていた。 背の低い彼は、群衆の前に出してもらえず、仕方がな
いので、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。 イエスが、ちょうどそこに来られた時、立
ち止まられて、上を見上げてザアカイに「ザアカイ、急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの
家に泊まることにしてあるから。」と言われると、彼は喜んでイエス様を迎え入れた。 ザアカイ
の家に入られたイエスを、群衆は「罪人の家に入って客となってしまった。」とつぶやきザアカイ
と共に見下げた。 しかし、ザアカイは主に、自分の財産の半分は貧しい人に施し、不正の取
立てをした分は4倍にして返すことを、自ら申し上げた。 いわば、主に悔い改めをしたのであ
る。 その告白=決心を聞かれたイエスは、彼に上記の言葉を(ルカによる福音書 19;9,1
0)言われた。
嫌われ者のザアカイ、確かに彼がしてきたこと、生き方は人々に嫌われて当然だが、それでも
イエスは彼を哀れんで選んで下さった。 もしイエスが、ザアカイに声をかけられなかったら、
きっと彼の生き方は以前と何も変わっていなかったことだろう。 いや、ますます意固地になっ
てますます嫌われ者となっていたことだろう。 そして滅びへの道をまっしぐらであったことと思
われる。 ザアカイは『イエスがどんな方か見ようとして、いちじく桑の木に登った』というところ
に彼の心が表れているように見受けられる。 いずれにしても、イエスに個人的に声をかけら
れたときには、主のお言葉に応答できるのかもしれない。 イエスに見つけていただくかどう
か、大きなポイントとなりそうである。
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15;16
あなたがたがわたしを選んだのではありません。 わたしがあなたがたを選び、あなたが
たを任命したのである。 それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が
残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父が
あなたがたにお与えになるためです。
★新約聖書 第一コリント 1;27,28
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはず
かしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。 また、この世の取るに足りない者
や見下されている者を、神は選ばれました。 すなわち、有るものをない者のようにするた
め、無に等しいものを選ばれたのです。
●神が捜して下さる、声をかけて下さる「失われた人」というのは、罪人、この世の愚かな者、こ
の世の弱い者、この世の取るに足りない者、見下されている者、無に等しいものと聖書に記さ
れている。 実際そのような者というだけでなく、心の中で自分はそのような者であるとへりくだ
った者のことを言っている。 イエスがこの地上におられた当時、取税人や遊女たちはイエスの
先駆者バプテスマのヨハネを受け入れ、主イエスを受け入れたが、当時、律法学者やパリサイ
人や常識者、知識者などは、主イエスを受け入れなかった。 神と人の見方は違うものである。
人は外側を見る。 神は心の中を見るのである。 結局、現状、人の立場、状況がどうであろう
が、永遠を真に見るかどうか、考えるかどうかが、大切なことと思われる。 そして、神の、主イ
エスのあわれみを受けたいものである。
★新約聖書 ローマ人への手紙 9;15,16
神はモーセに「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」
と言われました。 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくだ
さる神によるのです。
★新約聖書 使徒行伝 16;31
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
●使徒行伝 16;31は神の約束である。 家族の誰か一人が神の救いに預かるならば、主は
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言われ、「きょ
う、救いがこの家に来ました。」と言ってくださるのである。 御言葉に、主イエスに期待していき
たいものである。