めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年2月6日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 マルコによる福音書7;6〜8
   しかし、イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう
   書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、
   わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の
   教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言
   い伝えを堅く守っている。

●教えが(永遠の)命や、救いに関係するかということを考えるとき、確かに、教えと言われるも
ののすべてが、命や救いに関係するものではないが、人がどう生きるかという、人の生きる道
について述べる教えは、とかく命、救いに関わるものが多いと思われる。 世の中には、賢人
と言われる人々が残した教え、尊敬すべき人々が残した教えなどを基に、努力して自分の道
を切り開くことのできる人々も多い。 そういう人々が、間違っているとか悪いとか言うのでは
ないが、ただ、そこには、聖書の神、全能の神とは何の関係もないことも事実である。 

どうしてクリスチャンになったのか、と問いかけられたことのあるクリスチャンが多いということを
聞いたことがある。 一般的に、クリスチャンというイメージは、世の中では「良い人」「慈悲深い
人」「教会へ行ってるから」「聖書を読んでいるから」「やさしい人」とか・・・そういう風な感想が
聞かれる。 それで、中には「クリスチャンなのに・・・」と指摘されると余計、クリスチャンらしく
振舞おうと、主に頼らず、自分の力でがんばって、聖書の言うキリストの香り、聖霊の香りを漂
わせるどころか、かえって肉(生まれついた性質、清められていない自我)を、ぷんぷん匂わ
せて、聖書で主が言われている姿から程遠いクリスチャンが多いことも事実である。 

私は、どうしてクリスチャンになったのか、という問いかけに、以前は「私は不完全な者、愚かな
罪人だから、主に変えられなければならないから。」と答えていた。 クリスチャンは完成された
者ではない。あのパウロでさえ こう言っている。

★新約聖書 ピリピ人への手紙 3:12
  私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。 ただ捕えようとし
  て、追求しているのです。 そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださっ
  たのです。

●確かに、神は主に従っていく者を変えてくださる。 そして、主に祈るから、この地上生活の
中で起きる人間関係など・・・様々な問題も解決され、ある面スムーズにいくようになる。

★新約聖書 第二コリント 3;18
   私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄
   光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主
   の働きによるのです。

●しかし、一番大切なことは、救い、永遠の命なのである。 今の時代は聖書で言うなら、終末
に入り始めたと思われるゆえに、永遠について迫られるものがある。 聖書は二重構造になっ
ており、表の部分は歴史的事実、教え、忠告、明らかにたとえと思われる部分と様々あるが、
どれもこれも、またあちらこちらに、その裏の部分、奥に神の奥義、啓示が隠されている。 また、
聖書は、「終末に生きる人々」に対して書かれている。 今の時代は 聖書のクライマックスに
近づいているのである。 今の時代、どう生きるかが、永遠を決定するとなれば、すばらしい人、
人間の教えというものでは、とうてい神の用意されている永遠の御国へは到達できない。 

「どうして、クリスチャンになったのか?」と今、問いかけられたら、「それはゴール(永遠の御
国)へ行くため。」と答えるだろう。 この地上でクリスチャンであっても、ゴールしなければ、
地上でのクリスチャン生活は失敗だったと言えよう。 やり直しがきく間はいいが、そのとき
では、もう遅いのである。 永遠は天国と地獄のいずれかである。 

●人間の理解に基づく、聖書の解釈、教えは、無駄、すなわち神の前に無意味な礼拝をもたら
すと、マルコによる福音書7;6〜8に記されている。 同じマルコの7;1〜9でパリサイ人や律
法学者たちが、イエス様の弟子のうち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、昔の
人たちの言い伝えを守っていないとイエスたちを責めたことが記されているが、水で洗うことに
ついては、旧約聖書の出エジプト記、レビ記に記されている。そこでは神は、それらの教えを通
して、神に会う者は、水の洗い、聖霊による洗いがなければ、祭司の務め、神に仕えることなど
できないことのたとえなのだが、律法学者たちは、文字どおり「水で洗う」と解釈してしまった。 

それをずっと教えているのである。これが人間の解釈、人間の教えである。 しかし、どうも現
代も同じ間違いをクリスチャンたちがしていると思われる。 私も かつてはそうだった。 いくら
聖書の御言葉であっても、結局、人間の解釈、教えでは、神の御心とは掛け離れてしまうどこ
ろか、神の示されるゴールと正反対のところへ導くおそれがある。 人間の教え、考え、解釈
は、たとえ、すばらしいと思われるものであっても、永遠の命、救いと何の関係もなく、決して
ゴールへは至らない。

★旧約聖書 箴言
 21:2  人は自分の道はみな正しいと思う。 しかし主は人の心の値打ちをはかられる。

 20;24  人の歩みは主によって定められる。 人間はどうして自分の道を理解できようか。

 16;25  人の目にはまっすぐに見える道がある。 その道は終わりは死の道である。 

●私たちは主に目を開いていただいて、永遠の命につながる道を歩んでいきたいものである。