めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年2月27日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 コロサイ人へのてがみ 3;16
   キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、戒
   め、・・・・

★旧約聖書 レビ記11;3
   動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反すうする
   ものは すべて、食べてもよい。

★旧約聖書 申命記14;8
   豚もそうである。ひづめは分かれているが、反すうしないから、あなたがたには汚れたも
   のである。その肉を食べてはならない。またその死体にも触れてはならない。
   
新約聖書のマルコによる福音書の5章に こんな話が記されている。 汚れた霊につかれた
人が墓場から出てきて、イエスを拝し「いと高き神の子イエス様。・・・・神の御名によってお願
いします。どうか私を苦しめないでください。」と叫んで言った。 イエスが悪霊にその人から出
て行けと命じると、汚れた霊は、豚の中に乗り移ることをイエスに懇願してゆるされ、、2千匹の
豚の中に入ったが、その豚の大群は、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちておぼれ死ん
だ。正気に返った人は、イエスのお供をしたいと願ったが、イエスは彼に「あなたの家、あなた
の家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれ
んでくださったかを、知らせなさい。」と言われた。 彼は主の御言葉に従って、イエスがどん
なに大きなことをして下さったかを、その地方で言い広めたという。

今日、教会でも(悪)霊について、あまり言わなくなったようであるらしいが、本当は、霊の問題
は今日の大きな問題と言っても過言ではない。 ここでわかるように、霊はどこかに、ひっつい
ておかなければならないものであるらしい。 汚れた霊だから、クリスチャンであろうと未信者で
あろうと、霊につかれるとおかしくなる。 昨今、理屈では考えられない事件が多発しているが、
明らかに霊が関係していると思われるものが多いようである。 霊は人に影響を与える。 悪霊
につかれておかしくなる、とまではいかなくても、人は悪霊にやられる時はあるのである。 霊
の影響を、案外多くの人が受けていると思われる。 しかし、(悪)霊の問題は、聖霊によって
解決される。 真に求めている人には、必ず解放が与えられる。 

★新約聖書 第一ヨハネ 2;17
   世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 1;1
   初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 
   6;48 わたし(イエス・キリスト)は、いのちのパンです。
   
   6;54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。

●霊から解放されなければ死に入っていく。 死、すなわち滅びである。 霊は豚の中に入るこ
とを望んだ。 聖書の中に記されている地名、人名、動物、等すべて主が我々に教えようとされ
る意味あいがある。 動物で清い、汚れているとの区分を教えているが、これはクリスチャンを
あらわす。 牛は、ひづめが分かれていて、反すうする動物なので、清い、食べてよいと記され
ている。 言わば、真のクリスチャンを表す。 豚はひづめは分かれてはいるが、反すうしな
いので、汚れている、食べてはならない。 他、らくだや岩だぬき、野うさぎは、反すうするが、
ひづめが分かれていないので、汚れている、食べてはならないと記されている。 これは、世と
妥協したクリスチャンを表す。 これらのことを通して、言わんとしていることは、ひづめが分か
れているというのは、世と分離しているということである。 

確かにクリスチャンは、ガラテヤ人の手紙1;4に「キリスは、今の悪の世から私たちを救い出
そうとして、・・・」
とあるように、ある意味、世から分離されたと言える。 反すうするとは、御言
葉を繰り返し々読むということであり、御言葉を練り食むということである。 聖書を読まないと
神の規準がわからない。 豚は雑食性であるが、真のクリスチャンは何でも食べてはいけない
のである。 吟味が必要なのである。 豚は せっかくひづめが分かれているのに、雑食性で
何でも食べるから、世と分離されていたはずが(ひづめが分かれている)、結局、世のもの、
神が汚れているものを食べてしまい、形だけの、名だけのクリスチャンということになる。 御
言葉を繰り返し々、読まないので、反すうすることがない。 それで、ちょっと耳ざわりのいい話
しであると、コロッとだまされてしまう。

昨今、キリスト教の教えだから、クリスチャンが、牧師が、神父が言っているからと、何でもかん
でも鵜呑みにすると、危険な時代に入ってしまった。 聖書では 御言葉を食べることにたとえ
て我々に教えているが、食べ物を区分して食べていかないと、とんでもないことになる。 キリス
ト教の教えと言っても、毒が混じり出した。 変な菌が入って、いのち(永遠の)を失いかねない
ということが、キリスト教会の中で多くなってきた。 非常に悲しむべきことである。 

フェミニスト神学(男女差別はダメと天にいます我らの父よ→天にいます我らの神よなどと聖書
を書き換えろ)、エコロジー神学(聖書の終末思想はケシカラン、古い天地はケシカランなど)、
多元主義(仏教もイスラム教もキリスト教も元は一つ、宗教間の対立は戦争を起こすから一つ
になろう)などは、キリスト教会で有名と言われる指導者たちが、勧めている。 しかし、これら
は、永遠のいのちを失わせる危険性を持っている。 いくらキリスト教会ですばらしいと言われ
ている人が語った言葉とはいえ、吟味することを勧める。 そして主イエス・キリストに従い、聖
書の御言葉に従っていくことが惑わしから、守られることとなる。 また、今、クリスチャンであっ
ても、自分自身を吟味する必要があるように思われる。 我々が、豚のような歩みをしているク
リスチャンなら、悪霊にやられてしまう。 そして死んでしまう。 主イエス様は、あわれみ深い
方である。 我々が、牛のように、ひづめが分かれ、御言葉を反すうしているならば、様々な悪
霊が攻撃して来ようが、守って下さる。 また、聖書の御言葉の奥にある神のみこころ、啓示を
与えて下さる。 そして、御言葉が聖霊によって、我々を立たしめるのである。