めんどり通信/2005年2月20日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 マルコによる福音書 4;23〜25
聞く耳のある人は聞きなさい。」また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさ
い。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上
に増し加えられます。 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているもの
までも取り上げられてしまいます。」
★新約聖書 第二テモテ3;16
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
●聖書は、創造者自身によって被造者である人間に(永遠の)いのちの道への指針として与え
られた神のみこころの啓示である。 かつてD.L.ムーディーという人は、こう言った。 「私は
信仰を求めて祈った。 そして、いつの日か信仰が稲妻のように落ちて来て、私を打つであろう
と考えた。 しかし、信仰は来そうになかった。」「ある日私は、ローマ人への手紙10章の次の
ことばを見出した。『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみこ
とばによるのです。』私は聖書を閉じ、信仰を求めて祈った。 その時から私は聖書を開き(祈
りつつ)学び始めた。そして信仰は日ごとに成長し続けている。」
今、主イエス・キリストは我々の肉眼では見ることはできない。 しかし、イエス・キリストが我々
の罪のために十字架で死なれ、3日目によみがえられて、今も生きておられることは事実であ
り実際である。 神は聖書を我々に与えて下さり、神のみことばとして受け入れた者に、そのこ
とばを成就して下さり、そのことを実感させて下さる。
さて、冒頭のみ言葉の箇所で言わんとしていることは、穀物(=神のことば)は同じであっても
、それを量るための枡は、それを使用する人によって異なるということである。つまり聖書に対
して持ってくるカップの大きさが人によって違うのだ。 人の御言葉に対しての期待に対
して はかりが違うのである。 大きな枡を持参した人は多く与えられ、小さな枡を持参した人
は少ししか量り与えられない。 小さなはかり・・つまり小さな評価しか下さないのである。
聖書は教養の書、修養の書、そのように量る人には それだけのもでしかない。 聖書を読みな
がら自殺した作家(芥川龍之介他)が日本にも何人かいるが、彼らの聖書に対するはかりは小
さかった。 聖書のすべての真理を受け入れよう、聖霊の賜物も預言を含めて、すべて受け入
れようとする者のはかりは大きい。 神は、そのはかりに従って恵みを与えて下さる。 神のみ
ことばの不思議なことは、それを心に受け入れていく人には ますます恵みがあふれて増加し
ていくことである。 みことばに対して大きな期待をもって 大きな はかりをもって求めていきた
いものである。
こうして見るときに、聖書では あちらこちらに日本(東の国々)について記されていることが
よくわかる。
★旧約聖書 エゼキエル書43;4,5
主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。 霊は私を引き上げ、私を内庭に連
れて行った。 なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。
★旧約聖書 エゼキエル書46;1
神である主はこう仰せられる。 内庭の東向きの門は、労働をする六日間は閉じておき、
安息日と新月の祭りの日にはあけなければならない。
●聖書に「1日は千年のごとし」(第二ペテロ3;8)とあるが、6日間(アダム以来6千年)は閉じ
られた門は、7日目(7つの目の千年期、7つ目のミレニアム)に開かれるとある。 もう、そろそ
ろ東の門は開かれてもいい時代に入ったようである。 神の栄光がこの日本の上にあらわれる
日も、そう遠い先ではなくなったようだ。 それを阻止すべく世界中では、偽りが横行している。
聖書までもが、曲解された訳のが出回っている。 NIVと言って、ニューエイジバイブルと言わ
れている聖書が、あろうことか神学校で勧められていると言う。 惑わしも、ますます巧妙かつ
熾烈になってきたようである。 我々は惑わしから逃れていきたいものである。 その為にも、
主イエス・キリストを真に受け入れ、神の規準、みこころである聖書のみことばを行なっていき
たいものである。 そうするならば、聖霊は惑わしから守り、真実を見せてくださるであろう。
【失われた契約の箱;日本には、祭りで神輿(みこし)をかつぐ風習がある。時には、かついだ
まま水の中に入っていくが、同じ光景が「ヨシュア記」でも見られる。聖書では神輿とは言わず
「契約の箱」と言われ神の臨在の象徴だった。今から3500年前、神がモーセに命じ造らせた
もの「十戒石板」を保管する箱で、材質はアカシヤ材、サイズは長さ120センチ、幅70センチ、
高さ70センチで内外に純金の被せ、四隅にある金の環にアカシヤ材の棒が通してあっ
た。箱の上には金のケルビムという翼のある天使が向き合って、一対置かれている。神輿では
鳳凰が乗せられている。鳳凰は、くちばしは鶏、あごは燕、尾は魚、首が蛇、全部が麒麟で、
後部は鹿に似たまさに想像上の鳥で、最も尊い鳥とされていた。ある神輿は、神社の神名づく
りの屋根のように、端に2つずつ千木が突き出したものもある。日本の神様が、この神の箱と
形や大きさがほぼ一致し、飾りつけもそっくり。しかも、神輿の保存の仕方も神輿に差し込まれ
た棒が抜かれず、ほとんどのものが、差し込まれた状態で神社の倉庫にしまわれるなど、
出エジプト記25章15節の指示通りだ。】