めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年11月6日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:1〜3
    あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
    わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言って
    おいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
    わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに
    迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

★新約聖書 第二テモテへの手紙 4:18
    主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主
    に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

★新約聖書 マタイによる福音書 12:32
    また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを
    言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

●聖書は、人が生きることについては、この地上だけでないことを明らかに語っている。 この
肉体が終わっても「次の世」といわれる世が来ることを語っている。 聖書は常に、次の世、永
遠の御国に焦点をあわせている。 

主もヨハネによる福音書 14:1〜3のように言われた。 次の世では、真のクリスチャンは、
神と共に、キリストと共に永遠に住むこととなるのである。 そこでは、神ご自身が共におられ
て、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもないと聖書に記されている。 (黙示録21章)
イエス様は、神を信じ、主イエス・キリストを真に信じる者のために、その場所を備えてくださる
と約束してくださった。 

★新約聖書 マルコによる福音書 8:34
   それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでも
   わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについ
   て来なさい。

●もし、今のこの世の生活こそ、第一、重要と言うなら、主は、わざわざ我々に、この世で自分
を捨てろとか自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさいなどと言われなかったであろう。
しかし、事実、主は群衆にも弟子にも、自分を捨てること、自分の十字架を背負って主に従って
行くことを勧めておられる。 いや、真のクリスチャンならば、そうすべきであるとの意味あいも
込められているように思われる。 

主は、クリスチャンがこの地上の道を歩むにおいて、聖書が焦点を置いていると同じところ、つ
まり次に来る世、永遠の御国を目標にして歩むべきことを強調しておられる。 

もし、今のこの世だけを考えるなら、貧乏よりは金持ちがいいし、短命よりは長生きする方がい
い。 無理して苦労するよりは、つつがなく暮らして、できれば楽して楽しんだ方がよい。  

しかし、主も、聖書も、本番は、次の世であると言われる。 何事でも本番を迎えるためには、
準備、備えが必要であろう。 そのように、この世は、次の世のための準備、備えのときなの
である。 また、準備、備えが不十分であれば、本番を安心して向かえることができない。

★新約聖書  第一コリント人への手紙 15:16〜20
    もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
    そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなた
    がたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
    そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
    もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、
    すべての人の中で一番哀れな者です。
    しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

●我々は、今のこの世の生き方というものを、もう一度考えてみるべきではないだろうか。 
神は、この世で我々が、どのような準備をしたらよいかを教えてくださるために、聖書という神
のことばを与えてくださっている。 また、神のことばを、どのように理解したらよいか、神のい
わんとされていることをどのように受け取ったらよいかを知るために、祈れと言われる。 

日本でも24聖人といわれる、最初の殉教者たちをはじめ、多くの殉教者たちは、この世で、
準備、備えが終わって、希望をもって死んでいったことであろう。 彼らは本番のすばらしさを
知っていたのかもしれない。 我々も今からこの世で備える者として、絶えず主に祈り求めて
いきたいものである。