めんどり通信/2004年9月19日。主が復活された記念すべき日曜日です!
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★新約聖書:第一コリント15:13,14もし、死者の復活がないなら、キリストも復活されなか
ったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないも
のになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
●神に一つの計画がある。 この計画は神の経綸と言われる。 神の経綸とは人に
対する神の全般的計画である。 それは、人の由来源泉、そして終局と生存の意義を
解き明かす。 聖書は歴史書、詩書、預言書、福音書、手紙、使途の働き、黙示録と
旧約と新約合わせて66卷ある。
聖書は、幾世紀にもわたって編集されたが、それでもそれは「一つの書物」である。
神が著者であるゆえに、一貫性がある。 聖書の中心は、イエス・キリストである。
イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活であり、永遠の命である。
使途パウロもコリント人への手紙でこう言っている。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のこと
です。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、
また、聖書に従って三日目によみがえられたこと…」第一コリント15:3,4)
神が我々、人を見られたとき、すべての人は罪人であると言われる。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の
恵みによりキリスト・イエスによるあがないのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
新約ローマ3:23,24)
キリストは我々の罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられて今も生きてお
られる。 これは事実であり、実際である。 神からの栄誉には永遠がかかっている。
我々は罪人であるゆえに、キリスト・イエスによる あがないがなけれは滅んでしまう
と聖書は言っている。 また、名だけのクリスチャンであっても律法(聖書)は持っている。
しかし、神が望んでおられるのは、人が真に救われて、真のクリスチャンになることである。
教会へ行っている、聖書を読んでいる、キリストを信じている(表面だけの薄ぺらに。本人
はそう思っていないとしても、神から見られたらそう見えるクリスチャンが多いことも事実)、
祈っている(何をどう祈っているか、ヤベツの祈りのように神の御心にない祈りを神は怒っ
ておられる)、からと言ってクリスチャンと言えるのではない。
クリスチャンとは、キリストにある者という意味であり、教会に従うのでも、人に従うのでもな
い。 ことばなる神、主イエス・キリストに従っていく者、御言葉を行っていく者を、クリスチャン
と言う。(ヨハネ福音書1:1)
8月のめんどり通信で記した旧約の「のがれの町」に逃げ込んできた人は、自分は このま
まだと報復される、殺される、滅ぼされる、さばかれると知ったから逃げ込んできたのである。
「律法(聖書)なしに罪を犯した者はすべて律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した
者はすべて、律法によって さばかれます。」新約ローマ2:12)
ことばなる神の御言葉であり、警告である。 「のがれの町」に入ってきた人は、神の警告
と福音を受け入れたゆえに、神の恵みに預かり、助かり救われた。 この「のがれの町」が
“イエス・キリスト”である。 真のクリスチャンは、この世(生前の地上だけのこと)にこだわ
らず、神が仰せられる‘永遠’を見据えているゆえに、イエスを信じる信仰に命をかけられる
のである。 主イエス・キリストは生きておられる。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」新約ヘブル13:8)