めんどり通信/2004年9月12日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 11:9,10
イエスは答えられた。「昼間は12時間あるでしょう。 だれでも、昼間歩けば、つまずくこと
はありません。 この世の光を見ているからです。
しかし、夜、歩けばつまずきます。 光がその人のうちにないからです。」
●主イエスは「わたしは世の光です。 わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことが
なく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)と言われた。
この世は暗く、光がないので、主が来られたが、今は、もっと闇が、深くなっているように思わ
れる。 日々のニュースで報道される出来事は、悲惨な事件や人々の欲の奪い合いなどの
嘆かわしい事柄など、現在の闇の部分を鮮明に表しているように思える。 光がある間は,
光によって、つまずくことを避けられることもできるが、問題は、光がなくなり、どこが危険か、
何が危ないか安全か見えなくなることだ。 しかし、この光がなくなることがあり得る。
ヨハネ12:31,32節で主は「まだしばらくの間、光は あなたがたの間にあります。 やみが
あなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。 やみの
中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。 あなたがたに光がある間に、光
の子どもとなるために光を信じなさい。」と仰せられた。
このイエスの時代(約二千年前)、多くの人が「イエス」という つまずきの石につまずいた。
それは、彼らが、光を持っていなかったからだ。(=真にイエスを信じ受け入れてなかった)
このことは、終末の日に大々的に起こることである。 終末の日は、多くのつまずきが起きて
くる日であり、光のない人は、皆つまずくであろう。 聖書は、この世の君は、サタン(悪魔)
であると言っている。 闇の力は、サタンから来る。 サタンはこの世の王であり、闇の王で
ある。 その中にあって教会は、光なる主イエス・キリストによって見えるものとされてきた
ところであった。
しかし、旧約時代、出エジプトの時、モーセによってエジプト全土が3日間真っ暗やみとな
ったように、今、教会がやみに覆われてしまっている。 もはやキリスト教会と言っても安心
できず、吟味が必要な時代になっている。 今の時代の教会のつまずきは、中東のパレス
チナ問題もその中の一つであろう。 土地も建物も財産も奪われたパレスチナ人の命を奪
うという悪魔的なわなだが、多くのクリスチャンが惑わされ、イスラエルの国の悪魔的な政
策に同調している。
主は、『光』について述べられたが、今、多くクリスチャンが、主に頼らず、この世の常識
や理性的判断を、この『光』の代用品としている。 これは惑わされるもとである。
真の『光』を求めない人々は必ず つまずく。 聖書によるともう終末に入ったと言われるが、
今、やみは確実に教会に入り込んできている。 じきに やみが全く教会を覆う日が来るだ
ろう。 それはクリスチャンたちが
『光』なる方を追い出しているからだ。
出エジプト記10:23に「三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともでき
なかった。しかしイスラエル人の住む所には光がった。」と記されている。
『光』がある者は つまずくことがなく、必ず助けがある。
それは『光』があるということだ!
光のある間に、しっかりと光のある、光をもつ者となっておきたいものだ。
★イスラエルの風習と日本の古来の風習シリーズ・・続き
【みこし】
日本:お祭りの際には、みこしを担いで町中をねり歩く。長い二本の棒の中央に社型の箱
を載せて、棒を担いで運ぶ。伊勢神宮では大神の栄光が後臨されると考えられている。
大体の場合、金箔で装飾されている。
ユダヤ:「アカシヤ材の箱を作らなければならない。これに純金をかぶせる。それは、そ
の内側と外側とに被せなければならない。その周りには金の飾り物を造る。箱の為に
四つの金の輪を鋳造し、それを四隅の基部にとりつける。一方の側二つの環を他の側
はほかの二つの環を取り付ける。アカシヤ材で棒を作り、それを金で被せる。その棒は
箱を担ぐために箱の両側にある環に通す。棒は箱の環に差し込んだたたにしなければ
ならない。抜いてはならない。」(出エジプト記25章)