めんとり通信/2004年8月1日 主が復活された記念すべき日です! ハレルヤ!
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★旧約聖書 ヨシュア記 20:3
あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさ
い。 その町々は、あなたがたが、血の復讐をする者から逃れる場所となる。
●聖書は、旧約、新約とも、神の霊感によって書かれたものである。(第2テモテ3:16)
それゆえ、御言葉を、自分勝手に解釈してはならないと第2ペテロ1:20,21に記されている。
字句どおり解釈することは簡単であるが、聖書は、字句どおりばかり解釈していくと、惑わし
の中に入る危険性がある。 御言葉の奥に書かれている、神が、言わんとしておられるこ
とをくみ取っていくことが重要である。
つまり、主の御心を悟り、たとえとして書かれている御言葉を理解していくことである。
その為、聖書を知ろうとする時、人知では、とうてい測り知ることのできない、神からの悟り、
聖霊の導きが必要である。 さて、この箇所でも、旧約時代の実際のことを通して、神が
言わんとしておられることがある。
あやまって人を殺す、という中で、最大の出来事は、イエスを十字架にかけたことである。
新約のルカ23:34で、主が「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわ
からないのです。」と言われた。 当時、あやまって、イエスを十字架につけて殺した人々
が、ペテロの説教で、悔い改め、罪をゆるされた多くの人がいた。(使途行伝2:37〜39)
しかし、このことは、彼らだけの問題ではない。 主が、私たちの罪のために、十字架で
死なれたから、私たちも知らずして、イエスを十字架につけたと言える。 「逃れの町」に
関連して同じ『知らずに殺人の罪を犯した人』であっても、二種類の結果がある。
1,「逃れの町に逃げ込む者は」血の復讐を求める者の手を逃れ命を救う。
2,「逃れの町に逃げ込まない者は」血の復讐を求める者の手を逃れず命を失う。 当時、
この逃れの町は、イスラエルのすべての人に提供されていたが、その恩恵を受けたのは
「この町」に逃げてきた者だけだった。
これは、イエスの救いの型で、主の救いは、全ての人に提供されているが、その救いの恩恵
を受けるのは、この逃れの町=主イエス(=真のキリストのからだなる教会)に、逃げてきた
者だけである。 その人は、神の裁きから、逃れることができるのである。
『救い』ということばが、意味するものは、“我々は皆、裁きの前にある。神の怒りの下にあ
る”ということ。 最後の審判の日、それまでは、この町、すなわち神による救いの下にい
たいものだ。 その時、裁きを免れる。
覚えていてほしい。
(1)救いは、万人に用意されている。
(2)しかし、求める者、ここに逃れてきた者のみ、それに預かる。
これが「逃れの町」を通して神が語られていることである。