めんどり通信/2004年5月23日 日曜日 週の始めの日曜日。主の復活の記念すべき日です!
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★新約聖書 第一コ
リント人への手紙 8:6
私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出てお
り、
私たちもこの神のために存在しているのです。 また、唯一の主なるイエス・キリストが
おられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在
するの です。
●イエスが十字架につけられた時、その両隣りに、それぞれ犯罪人もつけられた。
片方の
者は「あなたは、キリストではないか。自分と私たちを救え。」と悪口を言っ た。
もう片方の
者は、その人をたしなめて言った。 「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑
罰を受
けているではないか。 我々は自分のしたことの報いを受けているのだから あたりまえだ。
だが、この方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
後の犯罪人は、確かに地上にいる間に死刑に処せられなければならない罪を犯してきたが、
死ぬ間際に、イエスをキリスト (救
い主)と知る(悟る)ことができた。 彼はイエスをキリスト
と知った時(悟った時)、たとえ死ぬ寸前であっても、キリストに願い求めた。(=祈った)
「イエスさま。あなたの御国の位にお
着 きになるときには私を思い出して下さい。」と。
するとイエスは彼に言われた。
「まこと に、 あなたに告げます。 あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
イエスが十字架 に
つけられたことについては、歴史的事実として、多くの人々が知っている
ことである。 しか し、
イエスが罪のない方であられるのに十字架で死なれたということを、
また、イエスは御国の王 と
して位に着かれることを知っている人は少ない。
十字架で死なれ御国の王として、位に着かれるということは、イエスの十字架の死と復活を
信じているということである。 当時、イ
エ スを十字架につけたユダヤ人たちは、イエスが、
人を救ったことはある者だということは知っ て
いた。(様々な奇跡により人々を助け救った)
しかし、イエス・キリストの真の役目を知って
いなかった。 十字架の意味を悟っていなかっ
たのである。 イエスの両隣りの犯罪人は、我々
すべての人間を区分するものとしての象徴
のように思える。二種類の人を表している。
片方の罪人は、イエスをキリスト(救い主)とし
て悟らなかった。 結果、彼は滅びの穴に落ちたであろう。 もう片方の罪人は、イエスをキリ
ストとして悟った。 悟って、イエスに願い求
め た。(=祈った) 結果、イエスと共にパラダイ
スに行くことができた。
我々、人間は、この二人の犯罪人のように、神の前では、すべての人が、罪を犯した罪人で
ある、と神は言われる。 そ し
て、罪を犯した者は、その者が死ぬ(滅ぶ)、と神は仰せられ
る。(エゼキエル18:4) この 十字架上の犯罪人が言うように、いずれ、我々も地上生活でし
たことの報いをそれぞれ受け る
時が来るであろう。
『私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。ローマ 14:10』
と書かれている通りである。 しかし、イエスは、我々人の善行では成し得ることのできなか
った罪の処分というものを、イエス自らが、その身に、我々の罪を負って十字架で死なれると
いう形で処分して下さった。 そして三日目によみがえられて、信じる者を真に生かす為に、
今も生きて働いておられる。 このイエスをキリストと信じる者(=受け入れる者)
は、 イエ
スがキリストと悟ることができる。 十字架上の二人の犯罪人のように、我々の地上人生も
遅
かれ早かれ、終止符をうつ時がくる。 我々はどちらの罪人になっているであろうか。