めんどり通信/2004年3月1日 月曜日

★新約聖書 ローマ人への手紙3章22,24 
    すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる
    人に与 えられ、何の差別もありません。
 
     
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義とみちめられ
     るのです。


 ★新約聖書 ローマ人への手紙 5章12〜21節
 ★旧約聖書 創世記2章16,17、3章6


●キリスト教と言えばローマ・カトリックとプロテスタント。 今やローマ・カト リック人口は世界
で十億人。 大きな組織となり政治にも強い影響を与えている。  プロテスタントはローマ・カ
トリックに圧巻されつつある。 

エキュメニカル運動と 言ってローマ・カトリックとプロテスタントが同じ神を信じているのだから、
お互い の教理には目をつむって一つになろうとする働きが、キリスト教会の間である。 こ う
して、ローマ・カトリック教会のあらゆる偽りはプロテスタント教会に浸透してき ている。 
今後ますます浸透していくだろう。 

神は人間をロボットや人形のように 創造したのではない。 神は、人間を自由意志をもった
人格的存在として創造した。  その自由意志をもって人間は、神に従うことも拒否すること
もできるのである。  人類最初の人間アダムは、その自由意志をもって神に逆らい不従順
の罪を犯した。 

創世記三章の記述を見ると、蛇(サタンの象徴)が「神のように善悪を知る者とな る」と誘惑
した。『あなたは神の位置につける』とiいうことなのである。 それは 絶対者になれるという
ことでもある。(これは無心論の構造)  

ローマ・カトリッ クはカトリック要理の中で、神の創造は未完成であったというような説明をし
てい る。 だから、聖書に記されている神の創造に反対する進化論を安易に受け入れたの
である。 また、罪についても神の見方をせず、人間の考え方を取り込んでいる。 

聖書でパウロは、はっきりと人間には『原罪』があることを言っているが、ローマ・ カトリック
では罪には「大罪」と「小罪」があると説明している。 「小罪」につい ては悔い改めではなく、
努力が必要であると言っている。 ローマ・カトリックは罪 人が救われるというのは、神の恵
みに加えて道徳や巧徳が必要であるという。 とに かく努力が必要という。 イエスキリスト
を信じて義とされた者は、道徳生活を努力 して生きていかねばならないという。 この道徳
基準を下回った場合、救いの恵みが 破棄され、神の命を失うとしている。 従って救われた
者が永遠の命を失うというこ となのだ。 これがキリスト者にとっての「大罪」という。 彼等
は十字架の救いを 否定している。 また、この大罪を犯さないように道徳的努力をするから、
ローマ・ カトリック教会の人々は、ボランテヤ活動に対して熱心である。 小罪は直接に神の
恵みや永遠の命を失うことはないが、矯正と努力がないと大罪に陥るので努力が必要 とい
う。 まことに、しんどいものだ。 

・のテレビに放映されていた若者たちの苦 悩があわれに思う。 しかし、人間の努力次第
で どうにでもなるというのは案外、 人には受け入れやすいものではないだろうか。 罪の
量や質を自分たちで判断し、自 分たちで努力して、神よ、イエスよ、と言いながらも、神は
単に添え物にすぎなく、 結果がよければ、栄光も誉れも自分のものとなり、心地よい気分
で満たされる。 罪 人である我々人間には、受け入れやすいものではないだろか。 
だからローマ・カト リックが世的と言われるのも無理はない。 

しかし、聖書は、『すべての人は、罪を 犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・
ローマ3:23』と、アダムの 末として生まれた人間は意識があろうがなかろうが罪人である
といっている。 そこ には重さなどないと言っている。  イエス・キリストの十字架の前では、
罪の重さ はつり合うのだ。 罪に差別はない。 それだけに、十字架は重い。重要! 

★『こ の方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、
私 たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからで す。
使徒行伝4:12』 

このような世の中であるからこそ、罪について、真理につい て、救いについて、考えること
の出来る良心が目覚めさせられたいものだ。