めんどり通信/2004年10月31日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
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★新約聖書 第一コリント 5:8
ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パ
ン種のはいらない、純粋で真実なパンで祭りをしようではありせんか。
★新約聖書 ヨハネによる福音書 6:35
イエスは言われた。 「わたしがいのちのパンです。 わたしに来る者は 決して飢えるこ
とがなく、わたしを信じる者は どんなときにも、決して渇くことがありません。
★新約聖書 ヨハネによる福音書 1:1
初めに、ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。
●聖書は神の御心を、たとえで多く語られている。 特に、終末に関する多くの知識は、たとえ
の中に隠されている。 今の時代は我々は、たとえを通して 主が語っている奥義を理解して
いくことは大事なことである。 食べること飲むことは、人が生きていく上で重要なことだが、霊
に関しても、食べること飲むことが重要である。 霊については、食べることは みことばを食
べ、飲むことは、水(聖霊)を飲むことを言う。
マタイ4:4でイエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばに
よる。」と言われた。 また、このパンを食べることは、主キリストを食べることであり、真に主を
信じ、受け入れることである。 ただ、パン種の入らない、混ざりもののない純粋なパンを食べ
ることが、大切なのだが、その中に いつの間にか、人間の教えが入り込んでしまっている。
「聖書は文字通り読むもの」「霊的解釈はいけない」など人間的な教えを積み重ねている。
今日、「人間の教え」が ますます教会の中に広がり、その教えに毒されたために、多くのクリ
スチャンが真実を見えなくなっていると思われる。
パン種は罪をあらわすが、罪から分離された みことば、メッセージ(=種なしパン)を食べて
いかなければ、ますます惑わしの中に入り、真理が見えなくなってしまう。 約二千年前、イエス
・キリストが十字架で 我々の罪の為に死んで下さり、血を流されたが、このキリストの死とは、
実はパンとぶどう酒の死、すなわち みことばも聖霊の働きも死んでいくことの たとえとしても
受け取れるのである。
長いキリスト教会の歴史の中に、最初から悪魔が策略をもって、教会の中に、偽りを入れて浸
透させてきた。 カトリックなどは、聖書のみことばにより神の言わんとしていることから、全く離
れてしまっている。 しかし、プロテスタントも その渦の中に巻き込まれはじめている。 いや
大分巻き込まれてしまっているようだ。 プロテスタントもカトリックと合同を目指すエキュメニ
カル運動の中に すっぽりと入ってしまった教会が多いようである。
今の時代、「再臨は2回ある」「クリスチャンは裁きの時には挙げられるから大丈夫などの偽り
の教理は、神学校、神学書などを通して あたかも正統的な教理であるかのように教会を席巻
している。 まんまと悪魔の策略にのってしまって多くの教会が身動きがとれない状態になって
いる。 今の時代は惑わしが多く、教会の中にも このようにパン種(罪)の入った教理が
ばっこしている。 いのちのパンであるキリストを食べるとは、我々が主のみことばに従うという
心がある(持つ)ということである。 それが惑わしにのせられるか、見破るかの違いとなると思
われる。
5つのパンと2匹の魚から 主の祝福により、男だけでも5千人が食べることができた奇跡が、
福音書に記されているが、この時、12弟子はイエスからパンをもらって、人々に与えたもので
ある。 これが神の方法である。 主からちゃんとパンをもらった弟子からもらって食べている
かどうか、弟子はパンをもらう為に、祈っているかが重要である。
しかし、弟子も間違うときがある。 かつて神に愛されているダビデも間違ったことがあった。
そのとき どうするか。 だから弟子からもらう時にも、ただ受身だけになって 鵜呑みにするの
ではなく、主にあって、キリストにあって もらうのである。 絶えず、主のみこころをに祈り求め
る者に、神は あわれみを注ぎ、弟子が間違っているなら、それを教えて下さるであろう。
もらう者にも教えてくださるであろう。
我々は、神が立てられた権威に従うことは大切だが、いつも心に持って すべきことは『主イエ
ス・キリストに聞く』ということである。 これが基本である。 普通の人が常識と思っていることも
主に尋ねていくのである。 常識も世の中もキリスト教会も低下、変質してきているからである。
我々は 祝福されたみことばを与えられる時、力が来る! 祝福されたみことばに触れる時、
力が来る! 我々は、正しく、きちんと神のことば=主イエス・キリストを食べていきたいもので
ある。 正しく、きちんと信じていきたいものである。