めんどり通信/2004年10月10日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 ローマ人への手紙 11:4
  神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 あなたがたは、人を再び
  恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受け
  たのです。 私たちは御霊によって、「アバ、父よ。」と呼びます。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書  1:12
  しかし、この方(主イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた
  人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

  
●一般的に、クリスチャンと呼ばれている人々は、主イエス・キリストを自分の救い主と信じ、
受け入れた者を言う。  また、そのことを証しするため、洗礼(水のバプテスマ)を受け、一人
のクリスチャン誕生となる。 ただ、この時点では、我々の目には、外側の部分からしか判断
できないが、神は、人の心の中、内側を見られる。 人は外側を見、外側の行ないに重点を置
きがちだが、神は、外側に出てくる行ないの出どころを見られる。

 一般的に、クリスチャンは、良い行ないをするとのイメージがある。 その点では、マザーテレサ
や多くの聖人と呼ばれる人々は、人から見れば生粋のクリスチャンであろう。 しかし、本来、クリ
スチャンという意味は“キリストにある者”“キリストに付く者”で る。 外側の行ないが、いくら人か
ら受け入れられるものであっても、その出どころが、その人自身(=肉)から出てくるのであれば、
神の方では、クリスチャンと見られない。  キリストに付く者は、良いと言われる行ないは、その人
の内におられるキリストから出てくるものである。 神の見方と人の見方は違うのである。 そうす
ると、マザーテレサは「自分と神との間には、深い溝があり、隔たりがある。 自分は救われていな
い。」と自分で言っている以上、神から見ればクリスチャンとは言えない。 

 我々、クリスチャンなる者は、主イエス・キリストを信じて神の子とされた。 神の子とされた者
は、神の恵みと祝福を受けることのできる幸いの中へと導かれた。 しかし、この‘神の子’というと
き、注意しておかねばならないことがある。 それは、この‘神の子’は、‘実子’ではなく‘養子’で
あるということだ。 
ローマ人への手紙で‘神の子’について書かれている言葉の原語には、養子、
という意味がある。  しかし、養子は、その縁組を解消されれば、全くの他人となる。 もはや何
の関係もなくなるのである。 

我々は キリストを離れては‘神の子’とは言えないのである。 「私は主イエス・キリストを信じてい
る。」と言っても、日々、信じ続けているであろうか。 また「私は、主を愛している。」と言っても、
日々、愛し続けているであろうか。 主を信じる者は、主に絶えず、頼っている者である。 信じる
者は、その方の言うことを聞くものである。 愛する者は、その方の言うことを聞くものである。 そ
の方が言われることを守り、行なおうとするものである。 


★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:23
  だれでも わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。 そうすれば、わたしの父は
  その人を愛し、わたしたちは その人のところに来て、その人とともに住みます。

 養子である以上、好き勝手をしていたら、養子を解消されるという可能性もある。 神は、契約の
神でもあられるのだ。 


★旧約聖書 エレミヤ 11:4
  ・・・わたしの声に聞き従い、すべて わたしが あなたがたに命ずるように、それを行なえ。
  そうすれば、あなたがたは わたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。

契約とは、一方的なものだけでは成り立たない。 例えば、マンションを借りるのに、家主が契約
書を提示し、それを借りる側が、同意したなら、契約成立となる。 しかし、一旦、契約したものの、
借りた側が、契約事項を、あまりにも守らなすぎれば、家主の堪忍袋の緒も切れて
、契約解消となるであろう。 

しかし、クリスチャンが養子だからと言って悲観するものではない。 むしろ感謝すべきである。
 神は、我々を罪からあがない、救うために、ご自身のひとり子なるイエス様を、十字架につけ
ることを良しとされた。 そして、主イエスは3日目に復活され、我々を神の子とするために、御
父も主イエスも今なお、働いて下さっておられるのである。 私たちが、神の子と呼ばれる為に
、御父はどんなすばらしい愛を与えて下さったことか。
(第一ヨハネ3:1) また、キリストは神の
御姿であられる方なのに、ご自身を無にして仕える者の姿をとり、我々人と同じようになられ、我
々を滅びへと行かせまいと、我々の罪の為に、十字架で死んで下さった。
(ピリピ2:6〜8)

クリスチャンとなることは、またクリスチャンとは、それほど神から愛されているのである。
 

★新約聖書 エペソ人への手紙 1:5
  神は、ただ みこころのままに、私たちをイエス・キリストによって ご自分の子どもにしようと
  、愛をもって あらかじめ定めておられたのです。

クリスチャンと呼ばれる者は、自問自答してみる必要があろう。 キリストにあって、日々、生活し
ているかどうかを。 日々、大きな事柄小さな事柄に関わらず、絶えず、主に頼り続け、主のみ
ことばを守り、行なっているかどうかを。 

人から見たクリスチャンではなく、神から見たクリスチャンを、主は欲しておられる。 また、真の
クリスチャンには、神の守りと恵みと祝福があるのである。