めんどり聖書研究会

 
めんどり通信/2003年12月21日/聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと
戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。


★新約聖書 第二テモテ3:16
   聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益
   です。

★新約聖書 マタイ4:4
  イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ
  一つのことばによる。』と書いてある。」(申命記8:3にもあり)

●最近、日々のニュースには驚かされる内容が多い。 子が親を殺した、男が小学校に侵
入し、子供を傷つけた、親が子を虐待死させた、等々。 数年前から聞かれるようになった、
このようなニュースは、最近は、頻繁に聞かれるようになった。 突飛と思われる出来事以
外にも、常識が常識として、通用しなくなった出来事などもよく耳にする。 

いったい人間の良心はどこへ行ってしまったのだろう。 畜生にも劣る出来事ばかりが続い
ている世の中。 まさに惑わしのまっただ中に突入してしまった。 このことは、最初の人間
アダムとエバの時に始まっていた。 

アダムとエバが「取って食べたらきっと死ぬ。」(創世記2:17)と言われた神のことばに逆ら
って、善悪を知る木の実を食べてしまった。 その時、人類に罪と死が入ってきた。 彼らは
神と反対のことば「あなたがたは決して死なない。 それを食べると目が開けて、神のように
なり、善悪を知るようになる。」を受け入れた時、惑わしの霊に燃やされ、惑わしのまっただ
中に連れ込まれたのだ。 

ここに私たちの自由意志による決定が、その後の道を決めるという重要性を見ることができ
る。 神は私たち罪人に力や表面だけの良い行いなどを求めてはおられない。 私たち人
には、それが成せないことをよくご存知である。

(ローマ3:10〜12義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。…善を行う者は
いない。) 

ただ、神が私たちに求めておられることは、人が自由意志をもって神のことばを選択する
決心である。 主イエスキリストの御心に心を向けようという決心である。 自由意志を正
しく用いる時、神のあわれみと恵みと神の愛が、その人を包むのである。 そして、惑わ
しの世の中にあっても、真に正しい(義しい)ことが、何であるかが見えてくるのである。 

神のことばを知るために聖書が与えられている。 聖書のことばを理解するために聖霊が
与えられる。 今の時代はアダムとエバの時以上に惑わしが強く、多い。 善悪の木の実
を食べて賢くなった人間は長い歴史の間に、すばらしく文明、文化、科学他等々を発展さ
せてきた。 しかし、それと同時に、罪に罪を重ねてもきた。 この惑わしはキリスト教会
にも浸透しつつある。 現に浸透している教会が多い。 こんな世の中、私たちは、主の
みことばに従おう(従いたい)とする心、決心があるかどうか。 それが惑わしに乗せられ
るか、見破るかの違いとなってくるであろうと思う。


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