めんどり聖書研究会

 
めんどり通信/2003年9月14日


★新約聖書 マタイ4-1〜11
    イエスは悪魔の試みを受けるために御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

★新約聖書 ヘブル5:15,16
   私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。 罪を犯されま
   せんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
   ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを
   受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

●現在ほど誘惑が多くて強い時代はないのではないだろうか。 誘惑と罪は違う。 キリスト
ご自身が誘惑されているということが何よりの証拠である。 いろんな思い、実に不敬虔で犯
罪的(警察に捕まるようなものでなくても神から見られて)な思いが私たちの頭に浮かんでくる
ことがあり、私たちはそれをいかんともすることができない。 その思いを受け入れ、発展さ
せ、実行することが罪なのである。また、実行にまで至らなくても思いの中ででも罪であるこ
ともある。 

ルターは言った。「私たちは鳥が頭上を飛ぶのを妨げることはできない。 ただ、私たちの髪
の中に巣を作ることは妨げることはできる。」 

私たちは、ともすれば誘惑に気付いても、誘惑の餌食になってしまうことが多々あるのでは
ないだろうか。 時には、自分の欲望がその誘惑と一致するために、実行のために、正当に
見える理由を作り出す。 そうして、巧みに、罪を犯してしまっている。 自分を自分でコント
ロールができないのである。 誘惑されてそれに従って行った先が 地獄の入り口であるこ
とを知るならば、人はその誘惑に引かれ、のってしまい、罪を犯してしまう自分を主キリス
トにゆだねることだろう。 そのことを ただ神のあわれみにより知ることができますように。 

私たちは、誘惑に自分ひとりでは、完全なる勝利は無理だが、イエス様が そのことについ
て 私たちに与える為に、勝利をしてくださった。 だから、弱さにより、罪を犯してしまった
時、イエスキリストの十字架のもとに来て、悔い改めるだけでなく、日々、助けを得るため
に、心を主に向けて、キリストによりすがっていきたいものだ。 


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