めんどり聖書研究会

 
めんどり通信/2003年8月31日


★旧約聖書 詩篇34:8
    主のすばらしさを味わいこれを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。


●私たちの日々の生活では―まず信じて受け入れ、それから行動する―でやっている。 
日々の生活では、いつでもほとんど証明も何もなしに、ただ信じて行動している。 それ
でおかしいと思っていない。 (例:レストランで食事をすること、飛行機に乗ること、薬を
薬剤師からもらうこてなど他多々) 

もし私たちが日常生活で「まず証拠、次に‘信’の順序をどこまでも固執するならば、
今の私たちの社会生活は至る所で、ぎしぎし、きしりを起こし進行が止まってしまうであ
ろう。 人間の共同生活は、他人を信頼して行動する‘信’によってのみ可能である。 
だから、その同じ原理を、わたしたちの神との生活に応用しても、おかしくないのではあ
るまいか。 

私たちがクリスチャン生活へ第一歩を踏み出すのも‘信’によるほか道はない。 嬰児
がこの地上生活へ入るのに両親や大人たちを盲目的に信頼するよりほかはないとの
同じことである。 子供にとっても初心のクリスチャンにとっても理解と証明は後から来
るのである。 成長したクリスチャンにとってでさえ、理解と証明は後に来る場合が多い。 

神への‘信’は、あまりにも単純で実際的なものである。 ただ神、主イエスを信じて、
その‘信’の上に立って歩み出すよりほかにはないのである。 大切なことは‘信’を誰
に置くかである。 

神は‘信’を過ちやすい人間に置かず、神に置けと呼びかけている。 ‘信’を受けた神、
主イエスがその人の為に事を成して下さるのである。 要するに神が仕事を成されるに
任せねばならない。 たいていの場合、事にもよるが、それは私たちの考えているより
も長い時間がかかる。 辛抱しきれなくなって自分で救いの道を見出そうとして、友人
の力や環境の力を借りたりするのは、神の仕事を神の手から取り上げるものである。 
そこには神の導きや御手が入る余地がない。 

何を信ずるか? 神の尽きることのない愛、善意、私たちを助ける力とご意志等につい
ての、聖書の中を貫いて見られる証言を信ずるのである。 神、主イエスキリストへの信
仰に立って、自分のために、家庭のために、仕事のために、世の中のために、神の持た
れる力と賜、恵みを求めるようになった時、私たちの真に‘生きる’という仕事は始まった
のである。


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