★旧約聖書 箴言 3;6
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐ
にされる。
●ひとつのことを選択するごとに、私たちは人生の岐路に立っている。 一見、意味のないよ
うな決定が、人生のコースを変えることがある。 飛行機の予約を取り消した一、二時間後に、
その飛行機が墜落する…不思議なタイミングで、後日結婚する人に遇う等々…。
では、もしある決定が(大であれ小であれ)、それほど重大なものであるとすれば、どんな基
準で決定したらよいだろうか。 私たちの多くは、たとえクリスチャンであろうと、本当の意味
で真の神を知らずにこちゃごちゃとやっているのではないだろうか。 大抵は先見の明ではな
く、後知恵か、またときには不幸な結果を招くあわれな無知でもって。
決定をするのには、私たちは常識を使っている。 それに過去の経験で知ったことや、現在
自前にある状況や、プラスかマイナスかを計る秤や、他人の忠告などを参考にしている。
ただ、それにはどれも感情と偏見が付きものであるようだ。 また、常識と言われることが、
社会の落ち目な変動により、現在では常識が常識とは言えないほど、荒んだ時代となって
しまった。
聖書ははじめから、決定をするのには、よい方法があると言っている。 それは、神が個
人的に直接与える導きである。 神は、全体にもまた細かい個々の事柄についても、すべ
て私たちを導くことができるというのが、聖書に明瞭に記されている。 使途行伝には一世
紀のキリスト者たちの神の導きの例が数多く語られている。 彼らはこの内部の導き(聖霊
の導き)を特殊なことではなく、むしろ当たり前のことと思っていた。
キリスト教の歴史を見ると、組織化された教会は、一世紀の使途たちが最も重要と考えてい
たことー聖霊の交わり、神の御心に沿った祈り、神の直接の導き―が、ほとんど忘れられて
しまっている。
神は ご自身の導きを求める者を欲しておられる。 神が定められた道に進み
たいと願う者を欲しておられる。 神は私たちをまっすぐ歩ませたいのだ。 主イエスは
私た
ちを義とするため(イエスキリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる
人に与えられ=ローマ人3:22)、来られたのだから。 私たちを導くために来られたのだから。
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