★新約聖書 ローマ9:20〜
人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。 形造られた者が形造った者に対
して「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。…
●日本人が神への「信心」という場合、人にとって神とは何らかのご利益を得る手段で「応報」
すなわち「報われること」という意味あいが強いのではないだろうか。
旧約聖書のヨブ記の中で三人の友人は「神は全能であり義であるから、理由なく人を裁きか
つ苦しめることはない。 人間の苦悩はその人に原因がある」という応報の神学でヨブを責め
た。 その時いっさいを失った重病のヨブにこのように言うのは応報思想の形である。
日本人なら「前世の因果」とか「親の因果が子に報いた」などと言われる。 しかし、聖書には、
その発想がない。 いっさいの論争に失望したヨブは神に論争をいどんだ。「神が正しいのか、
自分が正しいのか、決着をつけよう。」と。 神は大嵐の中から大声でヨブに答える。 それは
一言で言えば「お前は被造物ではないか」ということである。
創造者は被造物の上に絶対意志を持っている。 イザヤもパウロも、これを陶器師と陶器の
関係にたとえている。 陶器は陶器師に抗議できない。 ヨブはそれを自覚しなかった。
それ
を自覚しないのがヨブの罪であり、神はその無知を責めた。 それからヨブは
それを自分の罪
として悔い改めた。
私はヨブ記を読みつつ思った。 応報思想は、自我を強め、人を律法的にさせるところがある
のではないだろうかと。 応報思想のあるところでは、神との正しい関係に留まることができ
ないのではないだろうかと。 神との関係が正しい位置(創造者と被造物)にない時に、神を
利用したり、他の人との関係にも腹をたてたり、落ち込んだりと平安が失われるのではないだ
ろうか。 自分は被造物であると創造者なる神、主イエスキリストを見ていくことこそが、日々
の生活の中で重要なのではないだろうか。
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