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2015年11月29日神が立てられた霊的な権威についての思考

著者の場合。 明確にキリストへの信仰に立った時から、知人や友だちが救われてほしいと福
音を伝え、その人たちを牧師に会わせていた。 そのうち、当時の教会の牧師から牧師訓練
を教会で受けるようになった。 当時、次々と人を教会に連れて行ったが、そのとき聖霊の導
きや、主のみわざと思われるようなことをいろいろ体験した。 当時の婦人牧師は、そのように
なるのは、牧師の権威の下にいるからであると釘を刺すように言われたが、その婦人牧師の
その言葉の動機には首をかしげるものがあった。 しかし、その言葉は、今でもその通りであ
ると思っている。 すべてとは言わないが、多くの霊の祝福など霊的なものは縦の流れで来る
と著者は思っている。 教会では、牧師が言われることは、主イエスが言われることと同じとい
うように教えられていたし、そのように受け取っていた。 「神が立てられた霊的権威」に従うと
いうことは重要なことであると受け取っていたが、今でもそのように受け取っている。 著者は、
とにかく主に喜ばれる者になりたかったし、それが著者の第一の願いだった。 そのことは今
も変わりない。 
 
ところが、だんだん、キリストにあって自分の頭で考えることができなくなり、牧師の言葉を待っ
てばかりいた。 当時の牧師は、信者や指導している教役者を「マインドコントロールして支配
してやろう」などと思っておらず、何とかして彼らを変えなければと、熱心であるあまり、強制的
になっていたと思われる。 しかし、結果的に著者はマインドコントロールにかかった状態に
なってしまった。 牧師が言われることを一生懸命、聞き入れて従おうとするが、牧師から見た
ら、「従っていない」と言われ、叱られてばかりで落ち込む日々が続き、浮上できなかった。 
 
「信者は家族を持っていいが、教役者は肉の家族を捨てて、この教会の教役者たちはキリスト
にあっての家族になる必要がある。」と言われていたが、その言葉さえも受け入れていた。 し
かし、牧師の気に入るようにはできなかったようだ。 それは、聖霊の導きと守りの中にあった
から、牧師の気に入るようにはできなかったということが今ならわかるが、当時はそのようには
考えられず、ただただ、できない自分を責め、苦しんだ。 
 
そのような著者を、主は不思議な方法でその教会から引き出してくださった。 マインドコント
ロールにかかっていた著者だったので、役に立たない著者を教会から追い出されるという形で
引き出してくださった。 ところが、人間不信、クリスチャン不信になった。 祈りに祈っていくう
ちに、主がマインドコントロールからも完全に解放してくださり、教会を追い出されたことで、自
分のどこが間違っていたのか、正しかったことは何か、・・・など祈っていくうちに、教会を追い
出されたことは、著者にとって幸いであったこと、教会で苦しんできたことは、著者の自我が砕
かれ、肉が切り取られるために主が大いに用いてくださったこと、当時の牧師の間違っていた
ところ、・・・などを主が教えてくださった。 
 
その後、長い年月の間に、ますます、いろいろな体験を通され変えられていき、主との深い交
わりへと入らせていただくようになった。 もし、マインドコントロールにかからなかったなら、当
時の教会から追い出されなかったなら、今日の著者はないと思う。 また、人間不信、クリス
チャン不信にならなかったなら、くクリスチャンとの交わりが欲しくて人恋しさで別の教会へと
走っていったであろうと思う。 当時、所属していた教会で日本のいろいろな教会の裏事情や
実情を聞いていたし実際見てきた。 またイスラエルへ行き、聖会へ行って、有名と言われる
牧師たちをこの目で見、その集会に参加しメッセージを聞いてきた。 
 
そして、思うこと。 それらの一つ一つの体験、経験の中には、人から見たら間違った判断を
し、曖昧な態度を取り、愚かさが前面に出ていると思われることがある。 それなのに主は、よ
くぞ憐れんでくださったと人から言われるし、自分もそのように思っていた。 しかし、その後、
尚も様々なことを体験させていただき祈っていくうち、それらの苦い経験の中で、主は著者が
表面はどうであれ、牧師が言われる言葉を行おうとし教えられる聖書のみことばを実践したり
と徹底的に「神が立てられた霊的権威」と「主のみことば」に従おうとしていたところを見ておら
れたのではないかということを思うようになった。 たとえ、牧師が間違ったことを教えていて
も、それさえ主は益にしてくださることなどをダビデの生涯を学んでいるとき、尚、確信した。 
 
そして、今までの人生、幸いな神のご計画の中に入れてくださっておられたから、今までの
程のいろいろな出来事(傍から見て良いと思われることも悪いと思われることも)を、何一つ無
駄にされず、益にしてくださっておられると痛感している。 だからと言って安堵してどっかり座
り込んで居眠りするのではなく、主から目を離さないことに取り組み、ますます主との交わりを
深くすることに取り組んでいる。


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