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2015年11月8日「祈り」「祈ること」について:「自分の奥まった部屋にはいり戸をしめる」ことについて思考

さて、著者が交わっている姉妹Aさんの証し。 約17年前、ある神学校を卒業された先輩が、タ
イで伝道者として活動され、食料や物資を難民キャンプに差し入れていたという。 その先輩
のところへ行こうとAさんたち8名ほどがタイへ自腹で向かった。 タイでは、2007年当時は、
2000キロに及ぶタイ・ミャンマー国境にタイ政府に正式に認められた難民キャンプが9箇所点
在していたという。 当時その数15万人。 Aさんたちが行った1998年頃も相当な人数のミャン
マー難民がいたようである。 
 
Aさんたちが行った難民キャンプは4千人(カレン族が大半)ではあったが、何しろ膨大な人数
の難民の数からすると小規模であったという。 NGOとかは政府に正式に認められた大きい
キャンプの支援に行くようで、この4千人のキャンプには来なかったようである。 ここは、まる
で忘れられた難民キャンプだったという。 それでも難民キャンプということで、キャンプの入口
では、軍隊が見張りをしていたという。 Aさんたちは、文房具や食べ物、衣類などを差し入れ
に行ったという。 そのミャンマー難民キャンプの4千人のほとんどがクリスチャンということで、
彼らのほしい物は「主を賛美するためにギターがほしい」と求めたという。 聖書は数はわから
ないが、あったようである。 
 
差し入れを渡して帰ろうとすると多くの子どもたちが寄ってきたので、一緒にそのキャンプへ
行った人たちは皆それぞれ微笑んで子どもたちと一緒に写真を撮っていたとのこと。 しか
し、Aさんは、とてもそのような気分にはなれなかったという。 子どもたちはこの難民キャンプ
で生まれ育ち、外の世界を知らない。 Aさんたちの乗った車が走り出すと、子どもたちはバイ
バイと手を振りながら車の後を追って来るように裸足で走って来たという。 一緒に行っていた
仲間たちはバイバイと手を振っていたが、Aさんは、涙が心の奥から溢れてきて止まらなかっ
たという。 皆はニコニコ笑って手を振っているのに、ひとり場違いのような感じで泣き、鼻水を
垂らすほどに泣いて悲しんでいるAさんの姿に仲間たちからドン引きされたとのこと。 
 
怪訝(けげん)そうに見られてもドン引きされても涙は止まらず、胸がちぎれ破れて血が出るほ
どの悲しみがこみ上げてきたという。 心の中で「私の残りの人生、ここに私が閉じ込められて
もいいですから、あの子たちを外に出してやってください」と心の奥の方から「祈り」が出てきた
という。 その後、日本に帰り、様々なことがあり時間は経過していったが、4千人の難民キャ
ンプと、あの子どもたちのことは心の片隅にしっかりあったという。 
 
それから15年くらい経ったとき、ふとテレビを見ると旅番組が放映されていた。 すると、キャス
ターが、タイを紹介しており、「ここは、ミャンマー難民キャンプがあったところです。 4千人の
小さなキャンプでしたが、アメリカの(ある)団体が、このキャンプに目を留めて、寄付を募り、
数年前、4千人全員をアメリカへ亡命させました。 4千人全員がアメリカへ移住しました。」と
言うのを聞いた。 Aさんは、「あのときのキャンプの人たち、あのときの子どもたちが外の世界
へ出ることができたんだ。 イエス様だ。」と主が祈りを聞いてくださったばかりか、このような自
分に、そのことを知らせてくださったとわかり、今度は感謝と畏敬の念を持って涙したという。 
今、振り返って考えてみると、あの時の「心の痛み」は、「主の痛み」だったこと、あの時の「祈
り」は、主が与えてくださった、「主の望まれる祈り」だったことを痛感するとのこと。


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