めんどり聖書研究会 TOPへ > 証しによるプロフィール一覧

2014年8月3日
「神に見捨てられた」と感じる経験は大切な訓練試練である:アブラハム、ヨセフ、ダビデから学ぶ

約29年前、著者も「神に見捨てられた」と感じる体験をした。 当時、教会の牧師から指導や教
えを受ける中、メッセージなど他いろいろなことが、なかなか牧師の望まれる通りにならなかっ
た。 牧師の望まれるようにならなくてはと、勧められたベニーヒンの本を必死で何度も何度も
読んだが、少しも心に入ってこなかった。 今思えば、聖霊の守りであったが、当時はそんなこ
と知る由もなかった。 著者を浮上させるために使った言葉であろうとは思うが、「おまえはイエ
ス様に嫌われている」とよく言われた。 ある日、牧師が「今すぐ教会に来なさい」ということで、
車を飛ばして教会へ向かった。 「また怒られる。」と思うと何とも心が重たく、沈んで浮上でき
なかった。 そのとき、ふと詩編のことばの一節が思い出された。 「人の歩みは主によって定
められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはな
い、主がその手を助けささえられるからである。(詩編37:23,24)」その「ことば」が浮かんだ途
端、何とも言えないくらいの平安、安心、明るさが戻って来た。 教会に着いて牧師の顔を見る
と、また落ち込んでしまったが、その後も主が与えてくださった「ことば」に戻っている。 自分の
歩みは主によって定められた道を進んで行くことが著者にとっても一番良いことだと痛感して
いる。 そして、今まですさまじい出来事が多々あったが、この「ことば」通り、全く打ち伏せられ
たことはない。 
 
また28年前、教会を追い出された後、教会不信、牧師不信、クリスチャン不信、人間不信に
陥って息をするのもしんどいと感じる時期があった。 「神に見捨てられた」のかと感じるほど
苦しかった。 悪しき霊からの声のようなものが「お前はもう終わりだ」と迫ってきた。 そのと
き、「ひとりでも滅びることを望まず(Uペテロ3:9)」「ことば」がよぎった。 一方では、その声
が言うように自分はどうしようもない者だ。主に従って行く資格さえない、という思いがあり、もう
一方では、自分はこれほど愚かな者であっても、主はわたしが滅びることを望んでおられな
い、という思いがわきあがっていた。 こころが真っ二つに分かれるような感覚だった。 それ
で、必死に一方の思いを掻き消し、離して、「このようなわたしでも滅びることは神のみこころで
はない」と叫んだことがある。 車を運転しているときだったが、悪しき霊に向こうへ行けと言わ
んばかりに大きな声で叫んだ。 主が「ことば」を与えてくださったことは、本当に「神の恵み」
あり「主のあわれみ」であった。
 


めんどり通信/2014年8月3日号へ


めんどり聖書研究会 TOPへ > 証しによるプロフィール一覧