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2013年7月14日<日々の細々したこと、些細なことの中にまで主を認めよ!>

約18年前、ある聖会に出席したときのこと。 そこでは、賛美歌が奏でられ、盛大に主がほめ
たたえられ、数人のクリスチャンが証しの壇に立った。 主の癒しの奇跡が次々と証しされ喜
び、主をほめたたえた。 その会場は、聖霊に包まれ、「素晴らしい」、の一言で表現できるよう
であった。 そのとき、著者も主を褒め称えていたが、心の奥の方で「この証しをした人たち、
ここにいる涙流して主を褒め称えている人たちの日々の生活はどうなんだろう?」と問うている
自分がいたことを今もはっきりと覚えている。 そして、讃美歌が多数の楽器で演奏され、歌唱
力のある聖歌隊が歌っているその場の雰囲気は、聖霊に包まれていると勘違いしているのか
もしれない、という思いがよぎったことも明確に覚えている。 よくある一般的な何かのコンサー
トと同じような雰囲気だったようにも思う。
 
当時、著者は家のことと教会の奉仕、働きで目まぐるしい忙しさだった。 「主の働きを何よりも
優先することは当然のこと」という教えは心の奥に染み込んでいた。 家のこと、家族のこと、
自分のことより何がなんでも主のことを最優先すべきという教えに自分自身を合わせていた。 
またそうすることが、主のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てること、自分
を捨てることになると思っていた。(マタイ19:29、16:24) その教えに反するような思いや考
え、感情が出たら、必死に「取り除いてください。」と祈ったものだ。 「口先だけでキリストを伝
えるのではないから、どのような人がキリストを伝えるのか。 キリストを語るのか。 それが重
要なことだ。」と教えられ、教えてきた。 確かにそうである。 今もそう思う。 
 
しかし、当時は本当の主のみこころをわかっていなかったとつくづく思う。 主への熱心が、とも
すれば律法的になり、主のみこころを履き違えていたように思う。 砕かれなければならなかっ
たのは当然だ。 主は、主のみこころを勘違いし、思い違いをしていたような著者を様々な体
験を通して砕いてくださった。 まだまだ途中経過ではあるが、本当に思うことは、我々一人一
人の存在、すなわち、我々の生活のすべて、生き方のすべてに主が介入されること、主を認め
ることを主の方が望まれているということである。 我々一人一人の細々した生活のすべて、
傍から見れば、それは世に関わっている事柄であって主のためではないと思われるようなこと
でも、祈って祈って主のみこころを尋ねたとき、主が「良し」とされたことは、「良い」ということで
ある。 我々の生き方そのものが本当の伝道であり、本当の証しになるということである。


めんどり通信/2013年7月14日号へ



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