めんどり聖書研究会


めんどり通信/2018年12月31日(月曜日)まことに、まことに、主は生きておられます!
二人の老人の死


★旧約聖書 ミカ書 68

   人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求めら

   れることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩む

   ことではないか。

 

★旧約聖書 詩編 13626

   天の神に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。(新改訳)

   天の神に感謝せよ、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。(口語訳)

 

●毎年、年末が来たらつくづく思うことだが、「1年の経つのが本当に早い」ということである。 

1年を振り返ってみると、あまりにも多くの出来事があったにも関わらず、あっという間に過ぎ

去ったように感じる。 多くの出来事が起こったときの方が、出来事が少なかったときよりも、

時間を長く感じるという人が多いと聞くが、著者の場合は、この1年もあっという間に過ぎた、

過ぎ去ってしまったという感覚の方が強い。 

 

さて、今年6月と12月、著者は二人の老人の死に立ち会った。 戦前生まれの多くの人は、

軍国主義的体質の社会で何かと苦労があったと聞く。 また、教育も国の為、家族の為なら自

らを犠牲にしてでも頑張り、守る人が多かったという。 二人の老人も戦前生まれで、いろいろ

苦労したようだ。 一人は、著者の母親である。

 

母の女学校時代。 学校の校長が、よく生徒たちを連れて神社参拝に行っていたという。 年

齢からして、当時は軍国主義の色濃い時代。 母は、なぜだかわからないが、それが嫌だっ

たという。 それで、お腹が痛いとか色々な理由をつけて神社には行かなかったという。 そし

て、なぜだかわからないが、空()を見上げていたことを覚えていると聞いたことがあった。

 

その後、結婚し、編物教室を開き教えながら、子育てをした。 人に教える職業であったが、人

との付き合いが苦手。本人曰く、「人と話していたら、自分は聞き役ばかりで、その聞く内容

が人の噂だったり、批判、悪口だったりが多いから、聞くのが、しんどい。 だから嫌になる。」 

 

そうして、晩年、主イエス・キリストを信じ受け入れた。 あるキリスト教会に通っていたが、主

は不思議な方法でそこから出された。 彼女にとっては、苦しいことだったが、後々にはそのこ

とは、大いに益になった。 それからは、既成の教会には行かず、同じように既成の教会に

通っていない人たちや牧会者である娘と交わったり祈ったりしていた。  一人一人が、「神と

自分、キリストと自分という一対一の関係を持つ」ことに重点を置いていた交わりだった。
            
言うなれば、牧師の言う言葉を盲信、盲従せず、一人一人が祈りながら、主の御心を追求し、

主ご自身を求めていきつつ考えながら言動していくということである。 もちろん、牧会者から

牧会を受けることもあるが、その時には、牧会者が主とその人の間に割って入らず、「主と人

が一対一の関係」になれるようにとの牧会を受けた。

母は聖書を読み、よく「めんどり通信」を印刷して読んでいた。 また、毎日よく祈っていた。 

形式的な祈りではなく、具体的に祈っていた。 どう祈ったらよいのかわからないときには、祈

り方を教えてほしいと著者に尋ねてきた。 対人関係で嫌なことがあると、深く考え込み、祈り、

納得がいかない時には泣いて祈っていたという。 しかし、最終的には、悔い改めて、主の御

心を優先しようとしていた。 プライドの高いところが残っていると、胸をたたき、ため息をつくこ

ともあった。 人間的には、まだまだ欠点もあったかもしれないが、主は「良し」としてくださって

いたと思う。

あるとき、母がだれにも相談せずにお寺の檀家を出た。著者にも相談せず、祈って一人で決

断して、お寺の住職に話したという。後でそのことを聞いた著者は、檀家を出た理由を尋ね

てみた。 聖書のみことばに従う、主のためにという思いもあったが、お寺(住職)とのつきあい

が、うっとおしくなったという思いの方が強いと言っていた。 それでも、主は「良し」としてくださ

り、むしろ、その行動には主の後押しがあったように思われた。

 

また、あるとき、お墓(石碑)を建て、ことばを刻むと娘たちに宣言した。 墓は三十年ほど前、

父が亡くなったとき、「安霊碑」と刻んだ墓を建てていた。 建てる石碑をその隣りに置くという。 

そして、石碑に刻む「ことば」は、「天の神に感謝」にするという。 「天の神」「感謝」という言

葉を刻みたいという。 本人曰く。 「同じことばが聖書にあるかどうかは知らないが、『天の神

に感謝』とする。」言う。 それで聖書の中に一か所だけ天の神に感謝せよ。・・・」があるこ

とを知らせた。 詩編13626である。 そのことを知らせると、「本当だ!」と驚き喜んでいた。 

聖書をよく読んでいても、その箇所が目に留まったというわけではないが、なぜだか、「天の神」

「感謝」という言葉にこだわりがあった。

 

母が召される数年前、母は、著者に「葬式についてはあなたに頼む、任す」といった。 その後、

母の娘たち(著者の姉妹)たちも交えて、どのようにするのかを話し合った。 それから約1

数か月後に召された。 キリスト教式通夜(前夜式)では、ほとんどがキリストを知らない親族

や知人たちばかりだったので、なぜ、キリスト教式的な通夜(前夜式)を行ったのかを、母の証

しを通してした。 葬儀当日は、母の棺をぐるりと母の子どもや孫、ひ孫たちが取り囲み、子は

お母さんとの、孫、ひ孫は、おばあちゃんとの思い出話しやいろいろなエピソードなど皆が話し、

最後に著者が祈ったが、最初から最後まで和やかな雰囲気の葬儀であった。 

 

「天の神」「感謝」という言葉にこだわったのは、母がこだわったというより、主の方がこだわ

っておられたのかもしれない。 天の神に感謝せよ」ということばは、女学校時代のあの経験

が関係していると言えよう。 女学校時代、母はキリストを知らなかったが、神なる主の方が母

を知っていてくださっていたから、校長先生たちと神社参拝に行くのが嫌だという思いで行動

できたのだと思う。 

 

また、自分が、お寺の檀家を出ることによって、まだキリストを受け入れていない子や孫が偶

像と偶像礼拝から遠ざかるかもしれない。 みことばを刻んだ墓(石碑)を建てることによって、

自分が偶像礼拝の対象になることを避けられる。 母が、このように考えたかどうかはわから

ない。 そのような(信仰的な思いの)言葉を著者は母から聞いたことがなかったからだ。 た

だ、みな一つ一つ、母には何故だかわからなかったけれど結果的にはそういうことになった。 

 

キリスト教式的な通夜で母の証しをしていた時、母の生涯に主が介入してくださっておられた

ことを痛感し、証ししながら、心の奥から、主への感謝があふれてきた。 人の人生に神であ

る主が介入してくださる者は幸いである、とつくづく思う。 母は、自分の人生に神が介入され

ていたことを深く知っていたわけではないが、確かに、母が、主イエス・キリストを信じる前から

神はこの母に介入されていた。 母の生涯は、神のご計画の中にあった。 幸いな者である。 

 

さて、もう一人の老人も、戦前生まれでいろいろ苦労したと聞く。 人と話すのが好きで、人の

ことをよく知ろうとしたようである。 ただ、聞くところによると、その人の考えや思いなどではな

く、仕事は何をしているのか、家族構成、経済事情などを知りたかったという。 (その)人にそ

れらのことを聞き出すのが上手いということを聞いたことがある。 噂話好きで、記憶力が良

かった。 社交的。 同じ人と長い間つきあうのではないようだが、いろいろな人と付き合って

いたようだ。 浅いが幅広い交友関係だったみたいである。 この世的に言えばすばらしい生

涯を終えたかもしれない。

 

ただ、この老人には、神の介入がなかった。 ないというより、神なる主が介入することを拒否

したのかもしれない。 理由なしにキリストを嫌っていたからだ。 好き嫌いという感情で動くタ

イプだからか? よくわからないが、とにかく、キリストを嫌っていた。 そういう意味での意志

は固かったように見受けられた。 

 

二人の老人は今年亡くなった。 二人とも戦前生まれで、それぞれ苦労した。 晩年は、それ

ぞれ、若い時の苦労に比べ、ゆとりをもって生活していた。 生活環境、性格などに少々の違

いはあったが、戦前戦中戦後まもなくの生活に比べれば、一般的に言う「幸せ」に暮らしてい

たと思う。 ただ、両者の違いは、その人の人生に、神が介入されていたか否かである。 神

なる主の介入を望んだか望まなかったである。 

 

この地上での生き方、人生には人によって様々な違いがある。 一人ひとりに与えられた人生

である。 どう生きるかは、その人が決めることである。 著者は、母の死から改めて、人生に

は神の介入が必要であることを学んだ。 この地上だけでなく、死後には「永遠」がある。 だ

から尚更、この地上で生きていくにおいて、主の介入が必須だと思った。

神が自分の人生に介入してくださっておられることを知り、日々、主に頼り、主ご自身と主の御

心を求めて生きていく者は幸いである。 そうすることが、一人一人が、主と自分、キリストと

自分という一対一の関係を持つ」ことであり、これが、「キリストとともに歩む」ということである

からだ。 そのことを考えつつ、祈りつつ、この年を過ぎ越したいものである。

 

★旧約聖書 詩編 37,23,24

人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。 たといその人

が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるか

らである。

 

★旧約聖書(新改訳) ヨブ記 3415

   すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る。






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