めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年12月17日(日曜日)主は復活され今も生きておられます!
<財布のある者は、財布を持たなければならない「時」が来ていることについての思考>


★新約聖書 ルカによる福音書 223536

そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわした

とき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。 

そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って

行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。

 

●イエスが「財布を持って行くな。」とか「財布を持っている者は、持って行け。」とか言われた

ことについて考えてみた。 イエスが、72人(もしくは70人)を選ばれ、行こうとしておられたす

べての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになったとき@財布も袋もくつも持って行くな。

(ルカ104)」と言われた。 しかし、このことばとは反対にA財布のあるものは、それを持っ

て行け。(ルカ2236)」と言われた時がある。

 

@「時」は、「神の救い」を宣べ伝えることができる時、それも全世界に宣べ伝えることがで

きる時である。 イエスが遣わした72人(もしくは70人)は、旧約聖書 創世記10にノアの子

どもであるセム、ハム、ヤペテの子孫、民族の名まえが記されているが、これは、その当時、

地上に存在したすべての民族の数と同じであり、現在の地上の全ての人種は、ここ(合計70

の人種)から派生したのだという。 いわば、イエスが遣わした72人(70人)という数字で、神の

福音は、全世界に伝わるということに呼応しているのかもしれない。

 

当時、イエスが72人(70人)を遣わされる時、収穫は多いが、働き人が少ない。 だから、収

穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。」と言われた。

(ルカ102 世界宣教の始まりである。 そういう(神のご用をする)時は、必要なものは、神

が与えてくださる。 何も持って行かなくても、神に従って行ったのであれば、主なる神が助け

て下さる。 その後の歴史においても、そういう証しを書物で読んだり聞いたりしたものだ。 

 

実際、教会は今まで長い間、世界宣教に取り組んできた。 多くの教団教会は、世界各地に

宣教師、伝道師などを派遣し、未開の地にまでキリスト者(クリスチャン)は福音を伝えに行っ

た。 彼らの伝道資金は、教団や教会が信者から献金を募り賄った。 教会時代、伝道者や

牧会者、教会運営などを献金で養われることを神は「良し」とされていた。 脱穀をする牛に

つこをけてはならない。(申命記254)」と書かれているが、主のために働いている人は報

酬を受けることを神は「良し」とされているからだと解釈されてきたし、イエスもそう言われた。

(マタイ109,10 援助された者たちの多くも「神が与えてくださった」と思ったことだろう。 

当にその通りだと思う。  

 

しかし、このことに関して、多くの問題が浮上したことも事実だ。 皆が皆、神が「良し」とされて

いたわけではない。 キリスト教会、クリスチャンと言えども、「お金」に関して、神が喜ばれな

い人間の考え、欲、肉の計算が入っていたところも多くあったようだ。 それでも、「神が与えて

くださった」と主張する者が多かったことも事実である。 時代が進めば進むほど、人間の考え

なのに、「神の御心だ」という言い回しが巧妙になってきていたのかもしれない。 もちろん、中

には本当に神の御前に敬虔で、神に喜ばれた者がいたことも事実である。

 

A「時」は、最後の晩餐の時、主が、汗が血のしたたりのように地に落ちるほどの苦しみも

だえたゲツセマネの祈りの時、その後、祭司長、宮守がしら、長老たちや彼らに遣わされた

や棒を持つ群集に囲まれる時、イエスの筆頭弟子であるペテロが、死を覚悟したという殉教

する危険性がある時、また迫害を受けるおそれがある時、・・・すなわち、危機、それもキリスト

者にとっての危機の「時」である。 終末にも同じような「時」が来ると言われている。 だから、

正しい福音を伝える者が、何らかの方法で圧迫(迫害、投獄)を受ける危険性があるの

かもれない。 そうなると、今までのように伝道や牧会、主のために働くことで自分も家族も

養わない「時」来るということである。 イエスが言われたように、自分も家族も養うために、

の用意をしなさいということであろう。 


ただ、伝道や牧会では自分も家族も養わない」ということは、もうだいぶ前に始まっていても

いいのかもしれない。 そういう意味での危機はもうだいぶ前に始まっているのではないだろ

うか。 @「時」は、イエスの時代から始まり2千年の時が過ぎた。 キリスト教は世界の隅々

にまで伝えられた。 世界宣教は成功し、キリスト教会が行ってきたことのすべてを神が喜ば

れたと思えるかもしれないが、意外とそうでもないようだ。 

 

長年のキリスト教会の歴史を見る時、主が言われたように、純粋に主のためだけに仕え務め

ることを全うできた者たち、主が喜ばれた者たちは、どれほどいたであろうか?   有名になっ

た教会、皆から「すばらしい」と言われるクリスチャンだからと言って皆が皆、主に喜ばれたと

は限らないかもしれない。 教会、クリスチャンの様々な団体の財布、すなわちお金に関わる

ことでの問題が結構多かった、多いと聞いたことがある。牧会をするにおいても、献金額が

牧会の内容に影響することもあったという話しをよく聞いた。 「献金のあり方」、「教会のあり

方」、「主に仕える者の生活手段」などを、どのようにすることが「主の御心」なのかを、じっくり

考えなくてはならない「時」は、もうすでに来ていると思われる。 

 

心を開いてキリストの弟子たちを受け入れてくれるとは限らない「事態」、大袈裟(おおげさ)な

言い方かもしれないが「危急の事態」が待ち受けているという状況になるからというだけでなく、

「キリストと自分の一対一の関係」が純粋なものかどうかを吟味する必要がある「時」になった

と思われる。 長い歴史の中で、問題は早くからあり、多くのキリスト教会や団体、クリスチャ

ンたちが、神の「良し」とされる道から外れてきている おそれがあるからだ。

 

今後、どのような時代になろうと、我々キリストを信じる者たちが第一にしなければならないこ

とは、「キリストと自分」、「神と自分」、「主と自分」という「一対一の交わり」、「一対一の関わり」

をしっかり持つことである。 これが足場となっていなければ、「主が定められた道」から逸らさ

れていく危険性が大いにあるからだ。 我々の敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食

いつくすべきものを求めて歩き回っている。(Tペテロ58) 自分の信仰は大丈夫と思ってい

ても、悪しき霊などに騙されない、目を覚ましているのだからと言っていたとしても、敵の策略

は巧妙である。

 

だから、このことが、足場としてしっかりしているなら、聖霊の導きが見えてくるであろうし、前

進するであろう。 このことに取り組む取り組み方には、一人一人に応じての違いがあるかも

しれない。 神からの訓練試練には、一人一人に応じての神の方法やレベルがあるからだ。 

しかし、皆が皆、一律ではないかもしれないが、このことに取り組もうと真剣に求める者を主は

見ておられ、何らかのかたちで、一人一人に応じて導いてくださるであろう。 主の方が、「ご

自身と人」との親しい交わりを望んでくださっているからだ。

 

いずれにしても、主イエス・キリストを信じるということは、決して、軽いことではない。 岩のよ

うにどっしりとした重みがあり、井戸のように深みがある。 「キリストと自分の一対一の関係」

に取り組むことが「主とともに歩む」ことであり、「主への信仰にとどまる」ことにもなる。 そして、

そのように取り組むことが、本当に心の底から「主イエス・キリストを信じている」と言えること

かもしれない。 だからこそ、我々は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さ

ないで、いつも主を仰ぎ見て、このことに全身全霊を尽くして取り組んでいきたいものである。

 

めんどり通信/2015614<「献金」「教会運営」「教会のあり方」についての思考>

めんどり通信/20141012<我々の内側深くにさえサタンや悪しき霊に付かれるところ

を一点でも残すな:旧約のユダ国の善王から学ぶ>参照

 

新約聖書 使徒行伝 225

   ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見てい

   た。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。

 

旧約聖書 詩篇 168

   私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。




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