めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年11月12日(日曜日)主は復活され今も生きておられます!
<主から与えられたことばを耳の中に納めておき、それが自分のものになることについて>


★旧約聖書 箴言 216

わが子よ、もしあなたが/わたしの言葉を受け、わたしの戒めを、あなたの心におさめ、

あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、しかも、もし知識を呼び求め、悟り

を得ようと、あなたの声をあげ、銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるよう

に、これを尋ねるならば、あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるように

なる。 これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。

 

★旧約聖書(新改訳) 詩篇 3418

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

 

●イエスが弟子たちに受難の告知をしたが、主のことばを聞いた弟子たちには理解できなか

った。 それは、そのことばの意味が隠されていたからであると書かれていることから、いろい

ろ考えてみた。 ルカによる福音書937節〜45節。 イエスが、悪霊につかれた息子をい

やされたとき、人々がみな、神の偉大な力に驚いていると、イエスは弟子たちに「あなたがた

はこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている。」と言わ

れた。(ルカ944 この箇所は、原文の直訳では「あなたがたは、あなたがたの耳の中にこ

れらのことばを置きなさい(納めなさい)であるという。

 

そして、この箇所「この言葉」は、原文では複数で「これらのことば」になっているという。 

NKJVではthese wordsとなっている。 要は、「人の子は人々の手に渡されようとしている

(ルカ944)」十字架の死のことだけでなく、ルカ922でイエスが言われた「人の子は必ず

多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目に

よみがえる」が含まれているということだ。 すなわち、あなたがたの耳の中にこれら(十字架

の死と3日目の復活)のことばを置きなさい(納めなさい)ということである。

 

これらのみことばの意味が彼らに隠されていて、悟ることができなかった理由は、@群衆だけ

でなく弟子たちもイエスが何のためにこの世に来られたのかをまったく理解していなかったか

ら。 A人(弟子たちでさえ)が求めるのは、自分の目の前にある問題が優先だったから。 B

聖霊が臨んでくださることによって、はじめて理解できる事柄だったから。 Cそのことばの意

味について尋ねるのを恐れていたから(ルカ945などが挙げられる。 

 
@  については、弟子たちでさえ、主のみこころを理解できるレベルでなかったということも考
えられる。 主の望まれているレベルで、わかろうとするのは結構、難しいものである。 しか
し、隠されていても、「言葉を耳におさめて置きなさい」と言われる限り、その時には、わからな
くても重要なことばと捉えて記憶することはできる。 そうしようとする者の「霊」に主は、その
とばを刻み込んでくださるであろう。 そして、主の定めておられる「時」が来たら、そのことば
は、その人の心の奥底から浮上してくる。 そうして、初めて悟ることができる。

 
A  については、パウロも「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは

めていない。」と言っている。(ピリピ221) 主と主のことばを最優先するためには、イエスが

言われたように「自分を捨てる」必要がある。(マタイ1624 「自分を捨てる」とは、自我が砕

かれること、肉が切り取られることに関する。 Bについては、聖霊が、人の内に到来したなら

ば「この油(聖霊)が、すべてのことをあなたがたに教える。」とヨハネが言っている通りである。 

「エルサレムを離れるな。父の約束の聖霊のバプテスマを授けられるのを待て。」とのイエス

のことばを守り、五旬節の日心を一つにして祈りに専念していた弟子たちのところに約束の

聖霊が注がれ、みなが聖霊に満たされた。(使徒14,521-13 その時から、弟子たちは、

大胆にキリストのことを話し始めた。 耳の中に置いていた主のことばを聖霊が悟らせてくださ

ったのである。

 
Cについては、弟子たちは、イエスがイスラエルの国をローマ帝国から奪回し、イスラエルを
再興し、かつてのダビデ王の時の繁栄を取り戻してくれる救い主であると思っていたようで、
そのイエスが人々に捕えられる(死を意味する)という受難の予告など考えたくもなかったとい

う解釈がある。 その通りだと思う。 また、その他こう思う。 ペテロは、「あなたこそ(イエス)、

生ける神の子キリストです。」と告白したが、これは、イエスが言われたように、天の父がペテ

ロに言わさせてくださったということだ。 ペテロは、この告白を主のレベルで理解していたわ

けではない。 だから、イエスは、この告白をしたペテロを褒めるのではなく幸いだという言

い方をされた。

 

主が、ペテロの「心の奥底(霊)」にこの告白を置いてくださったと思われる。 しかし、表面上、

すなわち、人が日々生きていく中で働いている心(魂)の部分でも「イエスこそキリスト」である

ことを悟る必要がある。 ただ、そのことを心の奥底(霊)から心の表面上(魂)まで、すなわち、

自分自身の全てが悟るのを邪魔するのが、自我であり、肉(生まれながらの性質)である。 

だから、弟子たちも神からの訓練試練を受ける必要があった。 いざとなれば、自分の身をか

ばいイエスを裏切るような肉の性質は切り落とされなければならないし、自分の身を最優先す

自我は砕かれなければ、主に従うのに相応しい者とはなれないからだ。 砕かれ整えられ

ながら、主の御心を悟っていくことができるようになってくる。

  

聖書の著者は、神である。 神は、アルファであり、オメガであられる。 その神の全き支配の

下に、神の霊感を受けた人間の手によって書かれた「神のことば」聖書である。 もちろん、

聖書は今日、多くのキリスト者が言っているように、改ざんがあったり、翻訳に人間の考えや

感情が入ったりなど問題点も多い。 しかし、聖書のことば中には、神の真実、真理が隠さ

れていることも事実である。 だからこそ、それらの「隠された奥義」を見つけるためには、主を

最優先して真に主に頼って、聖霊の導きが必須である。 ある意味、聖書のことばを悟ったと

思っても、まだまだ主の望まれるレベルで悟っていないことがあることを忘れてはならない。 

安易に、自分の都合のいいようにみことばを解釈してはならない。

 

みことばを自分の都合のいいように安易に解釈することにおいて、約30年前のことが思い出

される。 当時、単立のキリスト教会に所属していた頃、教会が外国人の青年2人を泊めてい

た。 詳細は覚えていないが、確か、彼らは財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。

旅行のための袋も、・・・働き人がその食物を得るのは当然である。(マタイ109,10)」のことば

を提示して教会に泊まっていたように思う。 しかし、一向に主のための働きをしようとせず、

ただ飲んで食べての居候みたいだと思っていた。 牧師がどのように話されたのかはわから

いが、2人の外国人の青年は教会を出て行った。 明らかに、安易にみことばを自分の都合

のいいように解釈していたと、そのとき思ったことを覚えている。

いずれにしても、聖書のことば中には、神の真実、真理、神の御心が隠されているが、それ

らを、ただ知るというだけでなく、悟り、自分のものとすることが大切だということだ。 弟子たち

は、「イエスから聞いたことば」、すなわち、「イエスから与えられたことば」を、その時には理解

できなかったが、「主の定められた時」が来ると、聖霊のバプテスマを受けて(聖霊によって)、

理解し悟り、それらのことば(イエスの十字架の死と3日目の復活)が彼ら一人一人のものに

なった。 すなわち、「キリストと自分」がしっかりつながり、その「一対一の交わり」が確固たる

ものとなって、主と共に歩んで行った。 

 

このように、どのような形にしろ、「主からことば」を与えられた者は、そのことばを耳の中(心

の中)に置いておき(納めておき)、主に従おうと取り組んでいるなら、「主が定められた時」

来たら、与えられた「主からのことば」が、自分のものになって、「キリストと自分」がしっかりつ

ながり、その「一対一の交わり」が確固たるものとなって、主と共に歩んで行けるということだ。

 

また、聖書のことば中に隠されている、神の真実、真理、神の御心を知ろうと取り組むと同

時に、いやそれ以上に、「キリストと自分の一対一の交わり、かかわり」確固たるものとなる

ように取り組んでいるなら、主がその真剣な姿勢を見ておられて、「主の定められた時」が来

たら、そのことが揺るぎないものとなり、主と共に歩んで行けるようにしてくださるであろう。 

 

主と共に歩んで行けるためには、自我が砕かれ、肉(生まれながらの性質)が切り取られてい

く必要がある。 砕かれること、切り取られることには、「痛み」が伴うものである。 しかし、神

は我々が耐えられない「痛み」「訓練試練」にあわせることはなさらない。Tコリント1013 

主が定めておられる道を歩んでいる者で、主に心から寄りすがっている者が全く打ち伏せら

れることはないからだ。(詩編3723,24 だから、必死に、深みから取り組もうとするなら、主

は必ずその人を顧みてくださる。 我々は素直になって、日々、絶えず「信仰の創始者であり、

完成者であるイエスから目を離さないで」主の御前にへりくだって、真剣に自分の内側のこと

に取り組んでいきたいものである。

 

★新約聖書 マタイによる福音書 1624

それから。イエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、

分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。




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