めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年10月22日(日曜日)主は復活され今も生きておられます!
<「この世の愚かな者」「この世の見下されている者」「世の無学な者」について>


★新約聖書 コリント人への第一の手紙 1:27〜29、31
   それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはず
   かしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で
   身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたので
   ある。 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。・・・「誇る者
   は主を誇れ」・・・。
 
●冒頭の新約聖書 コリント人への手紙第一の手紙1章27節から31節までのことばについて、
いろいろ考えてみた。 神が選ばれたのはこの世の愚かな者」「この世の弱い者」「この世
の無きに等しい者」と書かれている。 新改訳では「この世の取るに足りない者」「この世の見
下されている者」「無に等しいもの」新共同訳では「世の無学な者」「身分の卑しい者」という
表現を使っている。 神は、神の御前でだれをも誇らせないために、そのような者を選ばれた
という。 
 
確かにイエスが選ばれた12使徒のなかで11人はガリラヤ出身の田舎の普通の人であった。 
ペテロとヨハネは人々に「無学な、普通の者」と言われた。(使徒4:13) イエスを裏切ったイス
カリオテのユダは、イスラエル南部の地方都市出身の人で、カリオテとは大都会という意味が
あるという。 ユダは、かなり優秀で、人からの信頼も得ていた人物だったといわれている。 
当然、弟子団の財務担当を任された。
 
それで、教会では、キリスト者(クリスチャン)は「この世の愚かな者」「この世の取るに足りない
者」「この世の見下されている者」「世の無学な者」であるとメッセージされる。 しかし、世の中
には、ただ単に著名なだけでなく、「信仰」を全うしたと言われる著名人や政治家もいたようで
ある。 原敬(第19代内閣総理大臣)、野口英世(細菌学者)、新島襄(教育者、同志社大学設
立者)、新渡戸稲造(農学者・教育者)、片山哲(第46代内閣総理大臣)、矢内原忠雄(東京大
学総長)、大平正芳(第68・69代内閣総理大臣)、などなど。(ウィキペディアより) 一人一人の
ことを著者は詳しくは知らないので、皆が皆、主が「良し」とされたかどうかはわからない。
 
ある教会のサイトで見たが、元日銀総裁の速水優(はやみ まもる)氏は、苦難の中から信仰
に入り、総裁時代、国会に呼ばれて質問を受けた時も「主ともにいます」「主われを愛す」「主す
べてを知りたもう」という聖書の約束を信じ重責を全うできたなど云々と書かれていた。 これ
を読むと速水氏は「この世の愚かな者」「この世の取るに足りない者」「この世の見下されてい
る者」「世の無学な者」に当てはまらない。 
 
パウロも、当時、8日目に割礼を受け、イスラエル部族に属し、ベニヤミン族の出身でヘブル人
の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、教会を迫害するほどの熱心な者、律法による
義では非難されるところのない者であり、ラビ(律法学者)ガマリエル のもとで教育を受けた学
問的にもエリート中のエリートだった。(ピリピ3:5,6) しかし、コリント人への手紙を書いたパウ
ロは、それらのものを「キリストのゆえに損と思うようになった」と言っている。(ピリピ3:7) 
 
ということは、文字通り解釈するのではなく、神の見方でこれらのことばを解釈する必要がある
と思われる。 一般的に教会で多く言われていることは、「この世の愚かな者」「この世の取る
に足りない者」「この世の見下されている者」「世の無学な者」とは、一言で言うなら、謙虚に自
分を知っている者、自分には価値が無いと思っている者、自分の愚かさ、知恵の無さに気づい
ている者ということである。 確かにそうである。 そのように自分のことを思う者は、自分の知
恵が打ち砕かれ、傲慢さが謙遜にさせられているから、そのように思えるのだ。
 
ただ、気をつけなければならないことは、人はどの次元(レベル)でそのように思っているかで
ある。 心の奥底には、しっかり「自分の思い」「自分の考え」・・・、すなわち「自分」があるの
に、自分は愚かだ、なんと自分は知恵のないことか、自分は価値ある者ではない、などと思い
込んでいる場合があり得るからだ。 それは心の深いところを見ず、心の浅いところで、そのよ
うに結論づけている。 深いところにある「自分の本音、本心」に触りたくないし、触られたくない
からだと思われる。 
 
「自分(自我」が砕かれるには、いろいろな神からの訓練試練が必要だと思われる。 様々な
神からの試練困難苦難を通るとき、「主と主のことば」に心から従おうとすると、打ち砕かれる
ことが多い。 試練困難苦難を通るとき、「主と主のことば」、すなわち「主なる神」の方に心を
向けないで、他のものに頼って行くなら、打ち砕かれたと思っても、心底からは打ち砕かれてい
ないことが多いのも事実だ。
 
心の浅いところで、自分はなんと愚かなんだ、などと胸を打ちたたいても、それは、砂の上に自
分の家を建てることと同じようになっているかもしれない。 神によって、心底から打ち砕かれ
ることは、結構、苦しく痛いものである。 だから人は、意識してか無意識か、それを避けようと
する傾向がある。 しかし、心底から打ち砕かれないと、何かの拍子に隠されていた「自分(自
我)」が出てくる。 神は、人の心の奥底がどうかを見ておられる。 神が、見られるところは人
とは異なるからだ。 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」とあるが、著者は心」「心の
奥底」という意味だと捉えている。 
 
今や、神から見られたら人間はみな「この世の無きに等しい者」である。 もちろん、神は最初
人間を造られたときは、尊い者として造られた。 「神と交わる者」として造られたからだ。 し
かし、罪が入ってから、人間は愚かな者に成り下がった。 そのような人間に、イエスの十字架
の死と復活によって、「神の救い」が与えられるようになった。 イエス・キリストを信じた者は、
「神と交わる者」として、「一対一で主と交わる者」としてのスタートラインに立つことができるよ
うにしてくださった。 
 
「一対一で主と交わる」ことに取り組むとき、自分の心の奥底に潜んでいたものや隠されてい
たものに気づかせていただくようになる。 気づかせてくださったものを認めるか認めないか
は、その人に任されている。 また、それを手離すか手離さないかも、その人に任されている。 
気づかせていただいたものを、認めること、手離すことを決心し、実際に主に従おうとするとき
が、いわば「自分(自我)」が打ち砕かれるときであり、「肉(生まれながらの性質、性分)」が切
り取られるときである。 それは、一人一人に応じての主なる神の取り扱いである。 それは、
我々一人一人が、神の御前にへりくだり、神との親しい交わりを続け、柔和で謙遜な者となっ
て神と共に歩んでいくためには、必要なことである。
 
結局、「主と一対一の親しい交わりを持つこと」、「主の中にとどまり続けること」が確固たるも
のとなることが大事だということである。 だから、いつも、「めんどり通信」で結論に行き着くと
ころは、このことに取り組むことが、どれほど重要であるかということだ。 「キリストと自分」、
「神と自分」、「主と自分」という一対一の「かかわり」「交わり」が確固たるものとなるように真剣
に取り組んでいきたいものである。 そして、おのれをむなしうして僕(しもべ)のかたちをとり、
人間の姿になられたイエスを誇りとし、日々の生活の中で、その完成者であるイエスから目を
離さないでいたいものである。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:1、2
   わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっている枝で
   実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実ら
   せるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
 
 



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