めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年9月17日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主の選びの御意志(御心)がある癒しや主からの呼びかけについての思考>


★新約聖書 ローマ人への手紙 9:15
   神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうと
   する者を、いつくしむ。」
 
福音書を読みながらイエスのなさった癒しや奇跡など、主イエス・キリストがなさったことを、
あれこれと考えていた。 イエスはカリスマ性もなく、もちろん扇動者でもなかった。 イザヤもイ
エスについて「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく(威厳もなく)、私たちが慕う
ような見ばえもない。」と預言している。(新改訳:イザヤ書53:2) イエスは、バプテスマのヨハ
ネが捕えられた後、ガリラヤへ行かれ、「時は満ちた、神の国は近づいた。 悔い改めて福音
を信ぜよ。」と宣教を開始された。(マタイ4:12-17、マルコ1:14,15) しかし、バプテスマのヨハ
ネのように誰もイエスのところに出て来ていない。
 
バプテスマのヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食
物としていたということで、いかにも預言者的な風貌をしていた。 だから 「悔い改めよ、天国
は近づいた。」と宣べると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨ
ハネのところ、荒野まで出て来たと書かれている。(マタイ3:1-12) バプテスマのヨハネの方
が、カリスマ性があったのかもしれない。 しかし、彼はイエスに対して先駆者を務めた人物で
ある。(ヨハネ福3:28-30)
 
福音書には、イエスがなさった多くのいやしや奇跡、しるしが記されているが、12弟子のヨハネ
「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界
もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」と言っている。(ヨハネ福21:25) この地
上でキリストとして立たれ、わずか3年半の間のことである。 
 
宣教開始のとき、バプテスマのヨハネと同じことば「悔い改めよ、天国は近づいた(マタイ3:2、
4:17)」と宣べても誰もイエスのところに出て来なかったのに、いつからイエスの周りに人々が
集まって来たのか。 マタイによる福音書を見ると、人々がイエスのところに来る前、イエスは、
ガリラヤの海べで、シモン(ペテロ)とアンデレの兄弟に「わたしについてきなさい。あなたがた
を、人間をとる漁師にしてあげよう。」と呼びかけられ、ヤコブとヨハネの兄弟にも呼びかけ、彼
らを招かれた。 彼らは、それぞれ、すぐにイエスの呼びかけに応答してイエスに従って行っ
た。(マタイ4章) ルカ5:1-11には、ペテロとの出会いが更に詳しく書かれている。 いずれに
しても、彼らがイエスに従って行ったのは、先にイエスからの「わたしについてきなさい」という
呼びかけ、召しがあって、それに彼らが応えただけという構図がある。
 
その後、イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の
中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。(マタイ4:23) シモンのしゅうとめ
をいやしたときも、夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきた。 
イエスは、みことばで悪霊を追い出し、病人をことごとくいやされた。(マタイ8:14-16) イエス
のうわさを聞いた人々は、いやしを求め、奇跡を求めて熱心にイエスを追い求めた。 
 
しかし、イエスの目的は「福音を知らせること」だった。(マルコ1:38) 「そのために出て来た」
とまで言われた。 最優先されることは、いやしや奇跡ではない。 それらは、必要な者に神は
確かに与えてくださるものである。 そうであるのに、人は順番を逆にしてしまう。 まず、いや
し、奇跡。その後に「福音(キリストによる救い)」。 たとえ、いやしや奇跡を体験することに
よって、キリストを信じ受け入れたとしても、いやしや奇跡と ほぼ同時に「福音(キリストによる
救い)」を体験すること、「キリスト」を見ることが、あればよいのだが、そうでなければ、多くの
人は何かあれば「キリスト」から離れる傾向がみられる。「キリスト」に躓(つまず)くのである。
 
イエスがなさった奇跡の中で病人のいやしが福音書で多く書かれている。 汚れた霊に取りつ
かれた男のいやし、らい病人のいやし、中風の者のいやし、片手の萎えた人のいやし、ヤイロ
の娘を生き返らせる、長血の女のいやし、異邦人ギリシャの女の娘から悪霊を追い出してい
やし、耳が聞こえず、口のきけない人のいやし、盲人のいやし、おしとつんぼの霊にとりつかれ
た子のいやし、・・・、と多く書かれている。 
 
これらを見て思った。 神は、あわれみ深いお方であり、すべての人が救われて、真理を悟る
に至ることを望んでおられるし、イエスも弱り果てている群衆を見て「かわいそうに」と慈愛に満
ちた豊かな愛で、人々をいやされた。(Tテモテ2:4、マタイ9:26) ただ、慈悲深いというだけ
でなく、いやしの中には、主の選びの御意志(御心)を感じるものがある。 いずれも、あわれ
み深い神のいやしなのだが、微妙に違いがあると思う。 主の選びの御意志(御心)があるい
やし、言い換えれば、神の計画の中に最初からあってのいやし神の計画の中になかったとし
ても、神のあわれみ深い御性質として「かわいそうに」といういやしの2種類があるのではない
かと思った。
 
癒しではないが、「救い」に関して、イエスはサマリヤの女に会いに行かれた。 ゲラサ人の地
の墓場に住んでいた悪霊につかれた男にも、イエスは会いに出かけられたと思われる。(め
んどり通信/2015年11月1日参照) 長血の女も偶然、会ったように見えるが、案外、神のご計
画の中に組み込まれていたのではないだろうか。 長血の女がイエスの衣のふさに触る前も
触った後も、触った時も、群衆がイエスを取り囲み、群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろ
うとしていた。(ルカ6:19、8:45) 群衆は、力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にい
やしていたのを見ていたのである。 だから、いやしを求めて実際、イエスのみ衣に触れた者
もいたであろう。 しかし、長血の女だけがいやされた。 そこには、長血の女の信仰もあろう
が、主の選びの御意志(御心)、神のご計画の方が大きかったのではないかと思う。 バルテ
マイという盲人のこじきも、目に唾で土をこねて塗り、シロアムの池で洗わせ目を見えるように
した生まれつきの盲人も、主の選びの御意志(御心)があるいやし(最初から神の計画の中に
あってのいやし)だったのではないかと感じるのだが、どうだろうか。
 
使徒行伝を見ると、使徒たちが聖霊を豊かに注がれて、使徒たちによって、多くの奇跡としる
しとが、次々に行われた。 人々はついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置
いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであったと
いう。(使徒5:15) また、パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てる
と、その病気は去り、悪霊は出て行った。(使徒19:12) このように、聖霊のいやし使徒たち
を通して働かれているのを見ることができる。 このようなことを、多くの教会は求めて来たの
ではないだろうか。 いつの時代にも病人は、いやされたいという願いがあるのは当然のこと
である。 しかし、主導権、主権は「聖霊」、「主」にあるのだが、ともすれば、逆になって主導権
「人」になってしまうことが今も昔も結構、多いのではないかと思う。 
 
このようにして見ると、イエスがなさる奇跡、いやしは当然のことではあるが、主が主導権を取
られている。 弟子たちが、主に従うこと、主に仕えることにおいても同様である。 すなわち、
まず、主の選びの御意志(御心)があるということ。 主に従う、仕えることについても、まず、
主からの呼びかけがあること、それが主の選びの御意志(御心)があるということだ。 大事な
ことは、主からの呼びかけ、語りかけ、招かれの方である。 
 
だから、我々人がなすべきことは、主が与えようとしてくださっている主のあわれみを素直に受
け入れることであり、主イエスに声をかけられ、招かれて、それに応答するだけなのである。 
それは、自分の願いや思い、自分の意志を最優先するのではなく、自分が主導権を取るので
はない。 頑丈な意志も必要ない。 自分に重点を置くのではなく、主イエス・キリストに重点を
置くのである。 
 
「自分」を最優先する者、「自分」が主導権を持つ者、「自分」に重点を置く者は、「自分」にこだ
わる。 裏切ったイスカリオテのユダは、自分が裏切ったという、いわば「自分」にこだわったか
ら自殺した。 一方、イエスを知らないと3度も言って裏切ったペテロは、ユダど同じように「自
分」にこだわっていなかったのだろうか。 ユダと大差ないかもしれない。 しかし、ペテロは、
復活のキリストに3度「わたしの羊を飼いなさい」ことばを掛けられた。 ペテロは、そのことば
に応答した。 だから再びイエスに従うことができるようになった。(ヨハネ福21章) 違いは、主
からの呼びかけ、主の召しがあったかどうかである。
 
イエスは、弟子と群衆を区分されたが、ペテロとユダも区分されたのだろうか。 いずれにして
も、神の御心は、本来、「すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」
だから、ある意味、呼びかけは、すべての人になされている。 ただ、キリスト者(クリスチャン)
であっても、あまりにも「自分(自分の思い、考え、願い、思い込み、主張など)」が強くて聞こえ
なくなっている者が多いのも事実だ。 一人一人が、神の呼びかけに、どのように応答するの
か、神はすべてをご存知だと思われる。 それが、ペテロとユダの違いではないだろうか。 だ
から、イエスは「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこか
らはいって行く者が多い。」、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」と言われたので
はないだろうか。(マタイ7:13、22:14)
 
ただ、人の側では、前もって誰が主の呼びかけ、招きに応答するのか、しないのか、誰が狭い
門から入るのか、大きい滅びに至る門から入るのかなど、それらを知ることはできない。 だ
から、我々人がなすべきことは、「キリストと自分」が「一対一のしっかりした交わりになるこ
と」、「キリストにとどまり続けること」、それに取り組むことである。 浅いつながりではなく、深
いつながりでなくてはならない。 とどまるだけでなく、とどまり続ける必要がある。
 
主は直接、語られる場合と、牧会者など人を通して語られる場合、出来事を通して語られる場
合、聖書のことばを通して語られる場合、・・・と様々なかたちで語られる。 今日も、主はクリス
チャンであろうが未信者の方々であろうが、語っておられる。 呼びかけておられる。 主に
祈って、霊の耳を開いていただき、神の御声を聞こえるように、また聞き逃すことのないように
していただきたいものである。 そして、神の呼びかけに応え、従っていきたいものである。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 1:4、5
   みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたし
   たちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御
   旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。



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