めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年9月3日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<賢い(思慮深い)5人のおとめと愚かな(思慮が浅い)5人のおとめから思考してみる>


★新約聖書(新共同訳) テサロニケの信徒への手紙T 5:19
   “霊”の火を消してはいけません。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:5
   わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、また
   わたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離
   れては、あなたがたは何一つできないからである。
 
●イエスは、十字架にかけられる少し前、「花婿を出迎える十人のおとめ」のたとえを語られ
た。(マタイ25:1-13) たとえのあらすじは、こうである。 天国は、10人のおとめがそれぞれと
もし火(あかり)を手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ているという。 ともし火を持ち、入れ
物に油も用意しておいた賢い5人のおとめと、ともし火は持っていたが、入れ物に油を用意して
いなかった愚かな5人のおとめが、花婿を出迎えようとしていた。 花婿が来るのが遅れたの
で、みな、居眠りをして、寝てしまった。 ところが、夜中になって、『さあ、花婿だ、迎えに出なさ
い』と叫ぶ声を聞いて、娘たちは、みな起きて、ともし火(あかり)を整えた。 
 
ところが、愚かなおとめたちのともし火は消えそうだったので、賢いおとめたちに分けてくれる
よう頼んだ。 しかし、賢いおとめたちは、分けてあげるだけの量がないから店に買いに行くよ
うにと言った。 愚かなおとめたちが急いで買いに行ったが、その間に、花婿が到着して、婚礼
の祝宴の部屋に用意のできていた5人の賢いおとめたちと入った。 そして、戸が閉められた。 
その後で、油を買いに出かけていたおとめたちが帰ってきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、
あけてください』と言ったが、戸は開けてもらえず、「はっきり言うが、わたしはあなたがたを知
らない」と戸の中からの応答であった。 だから、ちゃんと目をさまして油を用意した、賢いおと
めとなりなさい、という話しである。
 
このたとえで、10人のおとめたちを、7年間の患難時代を生き延びた人々のことであって現在
の教会時代の信者ではないという解釈がある。 また、当時、ユダヤの婚宴は、夕方に始まる
のが慣例であり、その花嫁を、花婿自身が、迎えに行く際、花嫁の友は灯で道すがらを照らし
たということから、10人のおとめたちを花嫁ではなく、花嫁の友という解釈もあるようだ。 
 
しかし、マタイ25:1「十人の娘(新改訳)」、「十人のおとめ(口語訳)」「娘(おとめ)」という
原語、Uコリント11:2「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っ
ているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストに
ささげることにしたからです。(新改訳)」原語と同じだという。 このことからも、10人のおとめ
たちは、花嫁の友というより、神の民、キリスト者(クリスチャン)をさすと思われる。 
 
10人のおとめたちは、ともし火を持っていたが、「・・・七つのともし火が、御座の前で燃えてい
た。これらは、神の七つの霊である。(黙示録4:8)」から、「ともしび」「油」も、「聖霊」をさして
いると思われる。 「5人のおとめは賢いため、婚礼の祝宴に入ることができたが、愚かなおと
めは愚かであるために、婚礼の祝宴に入ることができなかった」というのは、主に会う備えをし
ていたはずなのに、現実にその日が来た時、その祝宴の席に入れない神の民、キリスト者(ク
リスチャン)がいるということである。 キリスト者(クリスチャン)だからといって、すべてのキリ
スト者(クリスチャン)が主イエス・キリストをお迎えすることができるとは限らないということだ。 
「婚礼の祝宴」の席に着ける者は、「狭い門」から入ってきた者だということだ。(マタイ7:13、ル
カ13:24)
 
10人のおとめたちは、花婿の来るのが遅れたのでみな、居眠りをして、寝てしまった。 聖書で
「寝る」「眠り込む」とは、罪を犯すということや、闇の中で影響を受けることをさす。 5人の賢く
思慮深いおとめたちも眠ってしまった。 この地上生活をしていると、神に責められるような
「罪」を犯さなくても、世に合わせなければならないときもある。 そのとき、度を越した世の影
響を受けてしまう時もある。 主のことを最優先しながらも知らず知らずのうちに、世の影響や
攻撃を受けて、圧迫を受ける時がある。 そのようなとき、疲れていることを感じるものだが、
そのようなときも、もしかしたら神から見られたら、眠った状態のときがあるのかもしれない。 
しかし、それを神は責められない。 声がかかれば、すぐに起きることができるからである。 
10人のおとめたちも、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」という声で起きることができた。 
 
起きた後、愚かなおとめたちが賢いおとめたちに油を分けてくれるようにと頼んだとき、断られ
たが、この聖書箇所を人間的観点で見るなら、油を少しあげるなり、ともし火が消えてしまって
も全員ではないし、めでたい席でのことだから、大目に見てあげてもいいのではないか。 神の
戒めは、互いに愛し合いなさい、ではないか、という意見が出るかもしれない。 しかし、それ
は、あくまでも肉の人間の感情による見方である。 油を買いに行っている時に「戸が閉めら
れた」ときっぱり言われたのは、この「油」は貸し借りや、人にあげることができないものだとい
うことを教えておられるのだと思われる。 
 
5人の愚かなおとめは賢い5人のおとめと同じように、ともし火(あかり)を持っていたし、「花婿
だ、迎えに出なさい」という声で起きることもできた。 違いは「ともし火」以外の「油」を十分に
用意していなかったことである。 愚かといわれるおとめたちも「油」は持っていたが、花婿がい
つ到着するのかわからなかった状況の中、その量が足りなかったということである。 用意す
る量さえも自分で判断するのではなく、主に尋ねよということではないだろうか。 また、5人の
愚かなおとめたちは、肉的な感情によるなら、気の毒なことと思えるかもしれないが、「婚礼の
祝宴」に出席するということを、どれほど重要で大事なこと、として受け取っているかどうかが問
われているのかもしれない。 イエスが言われた「だから、目をさましていなさい。・・(マタイ2
5:13)」は、そのことを言われているのではないだろうか。
 
こうしてみると、「油」を十分に用意するというのは、たやすくできないことを物語っているように
思われる。 この「油」すなわち「聖霊」は貸し借りや、人に簡単に分けてあげることはできな
い。 それは、悔い改めをすること、人生の歩みの中で主を最優先しようと取り組むこと、主に
つながり続けることを求め続けること、神からの訓練、試練を受けて、自我が砕かれること、肉
(生まれながらのる性質)が切り取られて変えられること、鍛えられることなどは、人が代われ
るものではない。 他の人が代わることはできない。
 
それらは、「神と人(自分)の一対一の関わり」のこと、「人が神と一対一で向き合う」ことであ
る。 人が神にきちんと向いて、正直になり、自分の本心、本音の姿を見つめなければならな
いことである。 そこに、何ものも割って入ることはできないことなのである。 それらの過程を
通ることにより、「聖霊の油」を十分に備えることができる。 神からの訓練試練を受けることや
自我が砕かれ、肉が切り取られるような出来事にあうことなど、様々な過程は、一人一人に
よって違うが、主に頼り続けなければ通ることができないものである。 
 
このたとえの最後にイエスは、「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがた
にはわからないからである。」と言われた。(マタイ25:13) 花婿が到着したときが、「その日そ
の時」である。 「その日その時」婚宴の部屋」に入れるか入れないかである。 「婚宴の
部屋」に入った後、その部屋の「戸は閉められた」。 「戸が閉められた」ことは、「賢いおとめ
たち」「愚かなおとめたち」を決定的に分けるという、厳しい裁きの響きがある。 戸が閉めら
れた後、「はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない」と言われ、決して戸が開けられるこ
とはなかった。 これは、マタイ7:23で語られたことば「あなたがたを全く知らない。不法を働く
者どもよ、行ってしまえ。」と同じである。 主の御名によって預言した者たち、悪霊を追い出し
た者たち、多くの力あるわざを行った者たちであったが、その日には、彼らも、「油」を十分に
用意できていなかった「愚かなおとめたち」と同じである。 彼らも「愚かなおとめたち」も、“霊”
(御霊)の火を消した者になる。
 
花婿なるキリストがいつ到着するのかわからないからこそ、「油」を十分に用意するということ
「目をさましている」ことになる。 そのために我々がすべきことは、人生の歩みの中で主を
最優先しようと取り組むこと、主につながり続けることを求め続けることではないだろうか。 
我々は、静かに神と一対一で向き合い、自分の本心、本音の姿を見つめ、正直になり、主なる
神キリストに留まり続け、親しく主と交わっていきたいものである。
 
★旧約聖書 イザヤ書 26:3
   あなたは全き平安をもって/こころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼して
   いるからである。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 25:13
   だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。





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