めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年8月6日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」についての思考


★新約聖書 ルカによる福音書 18:25-27
   富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 
   これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、イ
   エスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」
 
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」という
ことばについて考えてみた。 この箇所は、イエスがこのことばを仰せられる前の出来事やそ
のことに対して語られたイエスのことば、弟子たちの驚き、弟子たちの主張がセットになって書
かれている。 マタイ19:16-23-30、マルコ10:17-23-31、ルカ18:18-24-30に書かれている。 
その出来事とは、ひとりの人が、イエスのところに来て質問をした。 「永遠の命を得るために
は、どんなよいことをしたらいいのか」という質問である。 イエスは「殺すな、姦淫するな、盗む
な、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え」と、律法を提示された。 ところが、この人
は、それらは幼いときから守っているという。 
 
それでイエスは、「あなたに欠けているものがまだ一つある。・・持っているものをみな売り払っ
て、貧しい人々に分けてやりなさい。・・そして、わたしに従ってきなさい。」と言われたが、彼
は、そのイエスのことばにつまずき、悲しみながら立ち去って行ったということである。 立ち
去ったのは、この人は、たくさん資産を持っていたからだと書かれている。 この後、イエスは、
弟子たちに「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさし
い」と言われたのである。 すると、弟子たちは「では、だれが救われることができるのだろう」
と非常に驚いた。 イエスは彼らを見つめて「人にはそれはできないが、神にはなんでもできな
い事はない」と言われたということだ。
 
さて、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」
弟子たちが、イエスから聞いたとき、なぜ驚いたのだろうか。 当時、弟子たちは金持ちではな
かった。 だから、単純に自分たちは金持ちではないから、このことばは自分たちには当ては
まらないとは考えなかったのだろうか。 弟子たちも、当時の他のユダヤ人同様、金持ちは神
から祝福されている者だと思い込んでいたから、金持ちにさえそれほど難しいのなら、まして貧
しい我々がどうして入れるだろうか、と思ったのかもしれない。 
 
しかし、イエスのことばから、自分たちは、主を第一にして何もかも捨ててイエスに従ってきた
のだから、何かいただけるものがあるはずだと思ったのかもしれない。 ペテロは「何がいただ
けるでしょうか」と尋ねているからだ。 なぜ「何がいただける」という求め方をしたのだろうか? 
主イエスとイエスから離れて行った富める人との話しを聞いていたペテロたちである。 なぜ、
「永遠の命」、「神の国に入ること」を求めなかったのだろうか? 
 
この後ルカ18:31-33で、イエスは異邦人に引き渡され十字架にかけられること、3日目に復活
することを話されたが、弟子たちは、これらのことが何一つわからず、イエスの言われた事が
理解できなかったと書かれている。 弟子たちは当時のユダヤ人たちと同様、自分たちの思い
描くメシア像が心にしっかりあったから、旧約の預言者たちによって語られたメシアの預言を正
しく理解できなかったと思われる。 ということは、この時点ではまだ、らくだのたとえを完全に
理解したわけではなさそうである。
 
それでもイエスは、ペテロの尋ねに対して、イエスに従ってきた弟子たちが「永遠の命」を受け
ることを明確に答えてくださっている。 イエスは、この時点でのペテロたちにというより、ずっと
先のペテロたちを見ておられて、「わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイ
スラエルの十二の部族をさばくであろう。・・・わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、
子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。・・」
答えられたと思われる。
 
さて、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」
いうことばで、確かに、らくだが「針の穴」を通ることなどできないから、金持ちは救われること
はないと受け取れるが、イエスは、それでも「人にはできないが、神にはできる。神はなんでも
できるからである」と言われた。 だから、言い換えるなら、らくだを「針の穴」に通すことを神に
はできる、すなわち、神には不可能なことはないということである。 「針の穴」は、文字通りに
糸を通す「穴」と解釈すべきのように思われる。 
 
旧約聖書の一部(ダニエル書等)は古代アラム語で書かれたという。 BC300年以後、中期西
部諸方言の一つがパレスチナ・アラム語であり、中期東部諸方言の一つが古シリア語であると
いう。 従って、シリア語は1世紀のパレスチナ地方で話されていたパレスチナ・アラム語(=イ
エスの日常語)と原則的に同じものであり、おそらく当時は、通訳する必要もなくお互いに理解
できたものと言われている。 事実「シリア語」と「アラム語」は同義語として使われることもあ
るらしい。 新約聖書の書かれたギリシャ語シリア語(アラム語)とは全く異なった言語である
という。(ギリシャ語はインド・ヨーロッパ語族の一つ)(日本景教研究会資料より)
 
新約聖書ギリシャ語で書かれているが、キリスト教では、伝統的に「イエスや弟子たちはアラ
ム語を話していた」としてきたが、ヘブライ語説もあり、現段階ではアラム語説ヘブライ語説
の二説が併存している状況だという。 アラム語では、「らくだ(ガムラー)」には、「動物のらく
だ」「舟を繋ぐために用いる太い綱」という両方の意味があるという。 また、ヘブライ語の聖
では「富んでいる者が神の国にはいるよりは、綱が針の穴を通る方が、もっとやさしい」と書
かれているという。 もしかしたら、イエスは両方の意味を含まれて話されたのではないかと思
うのだが・・。 弟子たちの驚きようから「太い綱」より「らくだ」である。 また、「太い綱」は神に
よって削られて「針の穴」を通る「糸」にまでされるというのは、我々人にとって納得できるところ
がある。 いやむしろ納得できるというより、イエスの伝えようとした具体的な真理を知ることが
できると思う。 
 
「太い綱」「針の穴」を通る「糸」にすることができるのは、人の努力、力量、才能ではできず、
神にしかできないということである。 「太い綱」「富(財産、資産)」をあらわすが、それは、
字通りの「富(財産、資産、金銭)」だけでなく、「神を第一にする」こと、主と主のみこころを
最優先にする」こと、神を拠り所にする」ことの前(もしくは上)に出てくるものすべてが「太い
綱」である。 それは、金銭以外でも高い地位、名誉、出世欲、自分に対する好評価を欲する
こと・・・など人によって違う。 キリスト者(クリスチャン)であれば、そういう誘惑や思いには気
を付けていると思われるが、ついうっかり乗せられてしまう貪欲がある。 キリスト者(クリス
チャン)にとっての金持ち=たまものである。 奇跡やしるしや不思議などを行う霊のたまもの
を受けること、信仰の勇者として、人に認められることなどは、案外心の奥底に願いとして持っ
ているキリスト者(クリスチャン)もいるかもしれない。 
 
いずれにしても、何を誰を最優先するかである。 「神を最優先」、「神を第一」、「主を第一優
先」することが重要なのである。 「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは
畑を捨てた者」とイエスは言われたが、結局、「自分を捨てること」「主を第一優先」するため
には必須である。 「自分を捨て、自分の十字架を負う」為には、やはり自我が砕かれ、肉(生
まれながらの神に従うことができない性質)が切り取られる必要がある。 そして、しっかりキリ
ストとつながり続けて、「神と自分」、「主と自分」、「キリストと自分」の「一対一の関係」を確固た
るものにしていくことである。 いずれにしても、本当の意味で自分自身を捨てる、自分自身が
終わるため、自分の心の奥底に注目していきたいものである。 そして、信仰の創始者であ
り、完成者であるイエスから目を離さないで、そのことに取り組んでいきたいものである。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 16:24
   だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに
   従ってきなさい。






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