めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年7月16日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「五千人の給食」と「四千人の給食」から、いろいろ思考する>


★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28
   神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事
   を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 10:26
   だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、
   知られてこないものはない。
 
●4つの福音書の中に「五千人の給食」のことが書かれている。 マタイ14:14-21、マルコ6:32-
44、ルカ9:11-17、ヨハネ福6:1-14である。 「5つのパンと2匹の魚」で男だけで5千もの人を満
足させたという奇跡の話しである。 昔から教会では、いろいろな角度から教えのメッセージが
語られている。 大麦のパンのように質素な物でもイエスの御手に渡され、祝福されて裂かれ
るなら、大勢の者たちを満たすという考えられないような奇跡が起こること。 人の目には小さ
いもの、質の悪いもの、質素なものであっても、百倍、何十倍にもなって大いに用いられるとい
うこと。 すなわち、イエスだけが、人を満ち垂らせることができるということなどである。 本当
に、その通りである。
 
この話しで、4つの福音書に共通していることは、@人里離れたところまで追いかけてきた飢え
た群衆に対して、イエスは「かわいそうに」と彼らを「深くあわれんで」おられること。 Aこの奇
跡が行なわれたのは、「人里離れたところ」、「寂しい所」、「へんぴな所」すなわち「荒野」
あったこと。(ヨハネ福については書かれていないが) B男だけで5千人、女、子どもを合わせ
れば1万、2万人にもなると思われるが、「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げな
さい」とイエスが弟子たちに言われたこと。 Cイエスは、群衆を「すわらせた」こと、である。 
 
@について。 群衆を深くあわれんで、彼らの病気を直され続けられて夕方になったこと。(マ
タイ14:14) 「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っ
ていないのです。 空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来
ている人もいます。(マルコ8:2,3)」とイエスが言われたこと。 これらのこと、すなわち、イエス
の真のやさしさ弟子たちの心の奥に刻み込まれた思われる。 Aについて。 奇跡が行
なわれたのは「荒野」であったことで、弟子たちは、後に、モーセがイスラエル人たちを出エジ
プトさせて、「荒野」を旅し、そこで現された数々の「奇跡」を思い出して、同じようなことが目の
前で行なわれたことを思い、深く主の御前にへりくだったのではないだろうか。
 
Bについて。 「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」というイエスの問い
かけに、目に見えるものだけに囚われた現実的な答えをしたことを弟子たちが忘れないよう
に、主は彼らの心の奥に刻まれた思われる。 Cについて。 イエスがみなを「すわらせ」
イエスが祝福され裂かれたパンと魚をイエスから与えられた弟子たちが、すわっている群衆に
与え、群衆は満足するまで食べたことも、弟子たちの心の奥に刻み込まれた思われる。 後
に、弟子たちは「イエスがおられるところですわる」ことは、「神の御前にへりくだる」こと、「主の
もとにとどまる」こと、「弟子が、主から受けて、主のみわざをあらわす」こと悟ったであろう。
 
さて、「五千人の給食」と同じような奇跡で、「四千人の給食」が書かれている。 「五千人の給
食」の奇跡のわずか後に行なわれた奇跡である。 「四千人の給食」の奇跡のことが書かれて
いるのは、マタイ15:29-39、マルコ8:1-9である。 「五千人の給食」「四千人の給食」の奇跡
の違いは、イエスに渡されて祝福され裂かれたパンの数や魚の数、食べて満足した人々の
数、奇跡が行なわれた場所である。 ただ@のイエスが「かわいそうに」と群衆を「深くあわれ
んで」おられること。 Cのイエスが、群衆を「すわらせた」こと、イエスから与えられた弟子
たちが、すわっている群衆に与え、群衆は満足するまで食べたことは「五千人の給食」
ところと共通している。
 
Aの場所については、「五千人の給食」は、ガリラヤ地方、すなわちユダヤ人たちの間で行な
われ、「四千人の給食」は、ガリラヤ湖畔ではあるが、ガリラヤ湖の南東の地域、デカポリス地
方で行なわれたようである。(マルコ7:24,31、8:10) 「四千人の給食」の奇跡を行なわれた
後、「舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた(マルコ8:10)」と書かれているからである。 
ダルマヌタ地方(統一してマグダラと呼ぶのが一般的:別の言い方でマガダン)。 これらのこと
から四千人の給食」の奇跡は異邦人たちの間でなされたようである。 パンくずのあまりが
「五千人の給食」のときは、12かごいっぱい、「四千人の給食」のときは7かごいっぱいあった。 
 
この籠(かご)という言葉は、「五千人の給食」「四千人の給食」のときでは違う単語が使われ
ているという。 五千人の方では「コフィノス」という言葉で、バスケットほどの小さな籠だという。 
一方、四千人の方では「スピリス」という言葉で、人が一人はいるくらい大きな籠だという。 ま
た、聖書では「12」という数字は、イスラエル12部族を表しており、「4」は四方八方の異邦の
国々を表しており、「7」は、聖書では完全数で世界のすべての人を象徴している。 「5」モー
セ五書を、「7」使徒行伝でギリシャ人への配慮のため選ばれた7人の執事を連想させる。 
 
以上のことから、「五千人の給食」の奇跡は、主イエスが、「失われたものを捜して救うために
来た(ルカ19:10)」と仰せられた通り、神の民イスラエルを新しく集め、養って下さるということ。 
「四千人の給食」の奇跡は、主イエスの恵みは、異邦人にも及んでいくことを示しているという
こと。 すなわち、人を満ちたらせることができるのは、主イエス・キリストであることを語ってい
ると教えているメッセンジャーが多いが、その通りである。
 
上記のところで、ポイントは「主の御前にすわる」、「主のおられるところですわる」ということ。 
すなわち、「主イエス・キリストの御前でへりくだる」ということと「主に留まり続ける」ということで
あろう。 主にとどまり続けるなら、多くの実を結ぶことができるということだ。(ヨハネ福15:5) 
また、主のもとに留まり続ける弟子は、神のみわざによる祝福されたものを神から受けて、
人々に与えるという務めがあることもポイントであろう。
 
ただ、これら以外にも思考してみた。 「五千人の給食」のとき、イエスは弟子たちに「あなた
がたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」といわば、弟子たちを試されたが、「四千人
の給食」のときは、なぜ、弟子たちを試されなかったのかということ。 また、弟子たちは「五
千人の給食」のとき、現実的な答えをしたが、イエスの奇跡を見、体験していたのに、「四千人
の給食」のとき、なぜ、また同じように現実的な言葉を言ったのか、すなわち、イエスに頼らな
かったのかということ。 「五千人の給食」のときの経験が、なぜ、活かされなかったのかとい
うこと。 少し前に「五千人の給食」のときの奇跡を体験した弟子たちが、「四千人の給食」
とき、同じようなことが起きている状況の中で、主に頼って来ないこと、目に見えることに囚わ
れていることを、イエスは、なぜ、指摘されなかったのかということ、などいろいろ考えてみた。
 
弟子たちは、イエスにつき従って共にいるとき、多くの失敗をし、「まだわからないのか」と何度
もお叱りを受けた。 弟子たちの一つ一つの体験は、決して立派なものではなかった。 むしろ
軽はずみに言動することも多かった。 特に、ペテロは他の弟子たちの中で 失敗の代表者と
して記録されているが、他の弟子たちも同様である。  
 
その弟子たちがペンテコステのとき、聖霊を受け劇的に変わった。(使徒2章) 「聖霊」を豊か
に受けるとにより、それまで弟子たちの上を覆っていた「覆い」が取り除かれたとも言えよう。 
ある意味、「聖霊を受ける」ということは、心の上の「覆い」が取り除かれる」ことでもある。 
 
「五千人の給食」のとき、弟子たちは、試されることによって学んだところがある。 一般的な考
え方では 過去の経験を活かして今の時に役立てるということになろうが、「四千人の給食」
ときは、そのような一般的な法則は神から見られて必要なかったということであろう。 だから、
「四千人の給食」のときに、イエスは、同じような状況になり、弟子たちは、相変わらず現実的
に無理という結論を言ったが、弟子たちを叱らず、忠告も試すこともなさらず、「パンはいくつあ
るか」とすぐに、神のみわざを現された。 後は、「五千人の給食」のときと同じように、祝福さ
れ裂かれたパンと魚を弟子たちに与え、弟子たちからすわらせた群衆に与えさせた。
 
ここで、大事なことは、弟子たちがイエスと共にいるときに体験したこと、神が介入されて体験
したことは、経験として肉の心に刻み込まれるのではなく、心の奥、すなわち人の「霊」に刻み
込まれることである。 「覆い」が取り除かれた後に、刻まれていたものが表れてくる。 それ
は、主がその人を変えるための道具、材料となるものである。 だから、「五千人の給食」のと
きと「四千人の給食」のときでは、違いがあるのではないかと思う。 同じようなことで、同じ現
実的な言葉を言う弟子たちに、同じような試しという体験は必要なかったのかもしれない。 む
しろ、主の救い、恵みは神の選民イスラエルだけでなく、全世界、異邦人にも有り余るほど与
えようとしておられることを優先されているように思われる。 こういう考え方もできるのではな
いかと思った。
 
肉で言動することは、人間の思考、想像、推測で想定できる範囲のことなら、応用を利かせる
ことができる。 しかし、「霊」に関わることは、肉のものは通用しない。(Tコリント2:14) 「聖
霊を豊かに受ける」前の体験、経験を「益」にしてくださるということは、言わば、「覆い」が取り
除かれる前の一つ一つの体験に、主が関わってくださっていたということである。 そして、神
が介入されていた一つ一つの体験を「霊」に刻み込んで下さっていたということである。
 
主は、弟子たちをよくご存知だった。 失敗の代表者でもあるペテロも、母の胎内にあるときか
ら選び分け、召しておられた(ガラテヤ1:15) だから、ペテロの血気盛んな肉を切り取り、自
我を砕くために 失敗することさえも、良しとしてくださった。 ペテロは、自我が砕かれ、肉が
切り取られるたびに成長した。 弟子たちは、目に見えることに囚われ、外側からしか見えな
かったが、「霊」の成長により、表面の言動だけに左右されず、「霊」で人を見、物事を判断
きるようになった。 主の語りかけを「霊」で聞き、主のみこころを「霊」で悟った。 霊的に成長
すればするほど、主に正しく従うことができるようになる。
 
いずれにしても大事なことは、我々は、「聖霊が豊かに注がれること」、「聖霊に満たされる」
とを求めていくことである。 「主がおられるところにすわる」、すなわち「主のもとに留まり続け
る」ことである。 それが、「主のみ前にへりくだっている」ことであり、そうするなら、「聖霊が豊
かに注がれ」、「覆いが取り除かれ」、「聖霊に満たされ続ける」ようになるであろう。 
 
★ヨハネによる福音書 6:63
   人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した
   言葉は霊であり、また命である。






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