めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年7月9日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「聖霊の内在」など、あれこれ思考してみる(2)>


★新約聖書 使徒行伝 1:8
   ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサ
   マリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
 
「聖霊の内在」(聖霊が、キリストを信じる者の内に住まわれること)について、この間もいろ
いろ思考したが、もう少ししてみる。 この「聖霊の内在」には、2種類の見解がある。 @人は
回心した時点で、「聖霊を受ける」と考えるという見解。 「聖霊の内在」「聖霊を受ける」時に
始まると考える見解。 A第2の見解は、回心の時より始まる「聖霊の内在」「聖霊を受ける」
ことを別のものと考える見解。 「聖霊の内在」と聖霊が豊かに注がれ、満たされること、すな
わち、「聖霊の力」「聖霊の賜物」に預かることを区別する見解。
 
@の場合の見解を使徒行伝19:1-7に記されているエペソにいた弟子たち12人に当てはめる
なら、彼らは本当のキリスト者ではなかったことになる。 しかし、聖書では、彼らのことを「(キ
リストの)弟子」と書かれている。 ただ、「弟子」と言っても、まだ「聖霊」のことを知らず、主イ
エスを救い主として信じること以上に、悔い改めを強調して、バプテスマのヨハネのように禁欲
的な生活をしていたようである。 「ヨハネのバプテスマを受けた」という言葉から窺える。 「悔
い改め」だけにとどまるなら、「回心」とは言えない。 「十字架の死と復活」による神の救いの
みわざを信じ、主イエス・キリストを救い主として受け入れ、心を180度、主に向き返ることが、
「回心」である。
 
使徒行伝8:14-17で、サマリヤの人々が神のことばを受け入れて、主イエスの御名によってバ
プテスマを受けていたのに、まだ「聖霊」が下っていなかったと書かれている。 ペテロとヨハネ
は、彼らが「聖霊」を受けるように祈ったと書かれている。 そして、ふたりが彼らの上に手を置
くと、彼らは「聖霊」を受けたということだ。 魔術師シモンが、お金を持ってきて、自分も手を置
いた者に「聖霊」が受けられる権威を買おうとしたことから、それは目に見える形だったようだ。 
おそらく、五旬節のとき120人が「聖霊」に満たされたとき、いろいろの他国の言葉で語り出した
言葉(異言)と同じだと思われる。(使徒2章)
 
このようにして見ると、「聖霊の内在」はいつかということで、いろいろ解釈、見解の相違がある
のも止む得ないことかもしれない。 ただ「聖霊の内在」が始まったのは、ペンテコステの日か
らという見解が多い。 もしかしたら、イエスに「きょう、救がこの家にきた。」と言われたザアカ
や、イエスの方から常識を越えて近づいて「生ける水」を提示されたサマリヤの女や、イエス
に見えるようにしていただき従って行った盲人バルテマイも、もしかしたら120人の中にいて、
「聖霊」を受けたかもしれない。(ルカ19章、ヨハネ福4章、マルコ10章) イエスに悪霊ども(レ
ギオン)を追い出して正気にしていただいたた悪霊につかれていた人、長血の女、娘を生き返
らせていただいた会堂司のヤイロなども案外、120人の中にいたかもしれない。(マルコ5章、
ルカ8章) もちろん推測ではあるが。
 
さて、12弟子の場合を見てみる。 イスカリオテのユダは、主イエスを裏切り、自殺して12弟子
から抜けたので11弟子を見てみる。 彼らは、イエスがキリストとして立たれて十字架に掛けら
れるまでの約3年半、イエスのそばにいた。 イエスに付き従い、イエスが語られることばを聞
き、奥義を聞くことも許され、奇跡や不思議も一番間近で見ただけでなく、体験もした。 自分
たちもイエスから権威を受けて、人をいやし、悪霊を追い出したりした。 イエスに直接、いろい
ろ教えられ、時にはイエスからお叱りを受けた。 
 
イエスが「あなたがたはわたしをだれと言うか。」という問いかけに、ペテロは「あなたこそ、生
ける神の子キリストです。」と答えた。 イエスは「あなたにこの事をあらわしたのは、・・天にい
ますわたしの父である。」と言われた。(マタイ16章) また、イエスが復活されて、弟子たちが
集まっていた所に入って来られ、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けよ。」と仰せになった。(ヨ
ハネ福20章) このとき、弟子たちに「聖霊の内在」があったという見解と、イエスは復活されて
いても、まだ父の右に座しておられないので、この時の弟子たちに「聖霊の内在」はないという
見解がある。 「聖霊」は、イエスが昇天されて、神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受け
て、それを信じる者たちに注がれるからだという。(使徒2:33)
 
いずれにしても、弟子たちは多くの失敗もした。 イエスに戒められ、弟子たちは整えられて
いったかのように見えた。 ところが、最大の失敗をおかした。 失敗と片づけていいものかど
うかはわからないが、少なくとも主イエスは失敗と見なしてくださったと思われる。 それは、祭
司長、律法学者、長老たちから差し向けられた群衆やローマ兵までもがイエスを捕らえに来た
とき、弟子たちはみなイエスを見捨てて、逃げてしまったことだ。 イエスは、すでに このことを
ご存知だった。 それでペテロに「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないという
だろう。」と前もって言っておられた。(マタイ26:34) 
 
イエスと共に3年半過ごしながら、劇的ではないが徐々に弟子たちは整えられていったようだ。 
その期間のいろいろな体験、様々な方法でのイエスからの学びがあったからこそ、ペンテコス
テの日(五旬節の日:使徒2章)、「聖霊」を受けた瞬間の劇的な変化を見ることができたので
はないだろうか。 弟子たちが、主イエスと共に約3年半過ごした中で、彼らが目撃し、時には
実際体験した多くの奇跡、不思議、神の権威。 そして、軽はずみな言動など彼らの多くの失敗
の何一つ無駄になっていないということだ。 むしろ、それらの一つ一つを弟子たちは体験する
ことが必要だったとも思える。 すべてを「益」にしてくださっているということだ。
 
そうして、「主のことば」通りになる「主の時」が来たとき、12弟子を含むキリストの弟子たち120
人は「聖霊」を受けた。 「聖霊」が豊かに注がれた。 「聖霊」に満たされた。 使徒行伝2章
降に書かれている弟子たちは、大きく変わった。 弱々しかった弟子たちが、力強く、大胆さに
満たされた。 12弟子のおよそ半分が漁師であり、学問とは無縁のような感じだった彼らが語
るメッセージは、力強く人をキリストに引き寄せる力があった。 重要なことは聖霊の内在」
は当然のこと、その上、「聖霊に満たされる」「聖霊が豊かに注がれる」ことである。 「聖霊が
豊かに注がれた」なら、人は変わる。 それと、もう一つ、重要なことは、「聖霊を悲しませない」
こと、「御霊(聖霊)を消してはいけない」ことである。(Tテサロニケ5:19、エペソ4:30) 
 
ちなみに、「聖霊の内在」している証拠として、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主であ
る」と言うことができない。(Tコリント12:3)」と、「私たちは御霊によって、「アバ、父。(ローマ
8:15)」と呼びます。」と言われるが、昨今、偽キリスト者たちは、口先だけで「イエスは主であ
る」、「アバ、父」と呼ぶ。 偽キリスト者でなくても、軽い次元で口先だけで言える者もいるとい
う。 しかし、「人はうわべを見るが、主は心を見る。(Tサムエル16:7)」 心の奥を見られてい
ることを覚えておかなければならない。 口先だけということは、「聖霊」を悲しませ、「聖霊」を
消してしまうこと一つである。
 
主は、人が「聖霊の内在」をするまでの様々な事がら、失敗さえも無駄にはなさらない方であ
る。 もちろん、それ以降の事がらさえ、主は無駄にはなさらない。 その人を変えるための道
具にしてくださるなど、何かしら「益」にしてくださる。 我々は「聖霊」が働いてくださって「聖霊」
を受けることができる。 「聖霊が豊かに注がれて」、大きく変わることができる。 「洗礼」を受
けたからいって、「聖霊」が宿ってくださったとは言えない。 人は、形にこだわるのではなく、主
が見られてどうなのかに、こだわるべきである。 「聖霊の内在」はいつかということも、一人一
人に応じて、主が教えてくださるであろう。 「聖霊が豊かに注がれる」、「聖霊に満たされる」
うに求めていきたいものである。
 
★新約聖書 ルカによる福音書 11:13
 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っ
 ているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。






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