めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年7月2日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」から、いろいろ思考する>


★新約聖書 マタイによる福音書 27:46
   そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。そ
   れは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 
「キリストの十字架の死と復活」は、キリスト教信仰の神髄である。 イエスは神のひとり子と
して、この地上に来てくださった。 神の子キリストは、罪も、きずも、しみも汚れもない方だっ
た。 その方が父なる神から「杯」を差し出された。 このことについては、イエスはご存知だっ
た。 キリスト・イエスが、父からこの世に遣わされた目的は、罪人を救うため、世を救うため
だった。(Tテモテ1:15、ヨハネ福12:47) 御子キリストは父なる神と、世が造られる前から共
におられ、揺るぎない愛の交わりをされていた。 御子キリストは、御父にとどまり続けていた
のである。(ヨハネ福17:5) 
 
それで、救いのご計画を立てられた父なる神の御旨をよくご存知で、御子も同じ御心だったと
思われる。 それで、御子キリストは従順に父のご計画を実行された。 イエスは、弟子たちに
も、「人の子(イエス・キリスト)は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活
する ことになっている」と言われていた。(マタイ16:21他) また、「わたしが自分からいのちを
捨てるのである」とも言われていた。(ヨハネ福10:18) だから、罪のない神の御子であるご自
身が、人の姿を取られ、死ぬということの苦しみは、ある程度は想像することが、おできになっ
たであろうし、覚悟もできておられたと思う。  
 
御子イエス・キリストは、十字架にかけられる前に鞭で打たれた傷、お身体が十字架に磔にさ
れるために釘が手と足に打ち込まれたときの痛み、人々の冷ややかなまなざし…などで苦しま
れたのではない。 そういう苦しみなら、新約聖書に出てくるキリストの多くの弟子たちは、殉教
するとき体験したものである。 過去の多くの殉教者たちも同様である。 日本においても長崎
で殉教した26人も救われた者としての平安と天の御国に今こそ入れるという希望で、いわば、
喜んで殉教していった。 いつの時代も殉教者たちに悲惨さはない。 むしろ落ち着いて穏や
かな顔だった。 しかし、イエスは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったので
すか」と大声で叫ばれた。 
 
ゲツセマネの園で、父から飲むように差し出された「杯」を前にすると、イエスは、我々の想像
を絶する重圧と苦しみが御子を襲った。 イエスは、ゲツセマネの園で祈られた時、汗が血の
したたりのように地に落ちたと記されている。(ルカ22:44) それほど、苦しみ身悶えて心血を
注いで祈られた。 このことから、人間の罪の身代わりで十字架で死ぬことの苦しさは相当な
ものであることは、ご存知だったと思われる。 
 
イエスは、十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声
で叫ばれた。 この大声は、原文では「大きな声で絶叫された」という表現になっているという。 
イエスは、ご自分の霊的な苦しみを表されたのである。 そこには、殉教者たちのような落ち着
きも平安もない。 少しの輝かしい風格も見られない。 御子キリストは、父のご計画をすべて
知っておられた。 ただ一つ、知らないことは、ご自身が再臨される時がいつであるかだ。 こ
のことは、イエスご自身が言われている。 「その日、その時は、だれも知らない。天の御使た
ちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。(マタイ24:36、マルコ13:32)」と。
 
このように見てみると、イエスはもう一つ 前もって知っておられなかったことがあると思われ
る。 絶叫された時の苦しみ、すなわち、神から見捨てられ、引き離されたときの苦しみであ
る。 父から差し出された「杯」を飲んだ結果である。 「杯」の中身が、それまでの御子とは無
縁の「罪」であって、それを飲むということは、「神の怒りの杯を飲む」ということであり、人間を
救うためとはいえ、「神の罰を受ける」ということである。 それまでの御子には到底、想像もつ
かないことであったであろう。 御子イエス・キリストにとって、それは耐えがたい苦痛であった。 
絶叫せざるをえない苦しみであった。 そのような苦しみを前もっては知っておられなかったよ
うに思う。 それほど、父と子は、永遠の昔から常に共におられたからである。  父と子は、一
つだったからである。
 
基本的には、確かに「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、我々
人のためだった。 我々人の罪を背負い我々の身代わりとなって十字架にかけられたから、
我々の身代わりとして神に呼びかけられた。 イエスが、この苦しみの「杯」を飲んでくださって
「完了」してくださり、3日目によみがえられ我々は救われることができるのだ。 
 
ペテロは、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範
を残されたのである。(Tペテロ2:21)」と言っているが、十字架は死ぬところであり、確かに苦
しみを伴う。 それでも、イエスは、弟子たちに言われた。 「だれでもわたしについてきたいと
思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(マタイ16:24)」、「自
分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
(ルカ14:27)」と。 自我が砕かれ、肉(生まれながらの性質)が切り取られることは、その人に
とって相当の痛みがあり苦しいものである。
 
しかし、すでにキリストが苦しみの「杯」を飲んでくださって「完了」してくださったので、十字架に
つけられるときキリストが共にいてくださる。 パウロは、「わたしたちの内の古き人はキリストと
共に十字架につけられた(ローマ6:6)」、「わたしはキリストと共に十字架につけられた(ガラテ
ヤ2:19)」と言っている。 これらのことを、キリストを信じる者たちは体験する必要がある。 肉
にある者は、神を喜ばせることができないからだ。(ローマ8:8)
 
ただ、御子イエス・キリストでも予測できなかった苦しみ、大声で絶叫せざるを得ないほどの苦
しみがある。 「神から見捨てられた」苦しみ、「神から引き離された」苦しみである。 神から引
き離されることについては、罪人は、罪人の時点で神から引き離されている。 神から引き離さ
れているからと言って、御子のように絶叫する者はいないであろう。 初めから離れているので
あるからだ。 「神から見捨てられた」苦しみ、「神から引き離された」苦しみは、御子キリストの
ように、それまで父なる神と親しい交わりの関係にあった者が通る道であろう。 今日では、主
イエス・キリストにつながって交わりをしていた者が通る道である。 
 
何か神のご計画があって、そのように壮絶な苦しみ試練を通る者がいる。 皆が皆ではない。 
聖書では、ヨブの名があげられる。 ヨブは、異邦人で偶像礼拝の環境の中で育ったが、神に
喜ばれる人物であった。(ヨブ記1:8/めんどり通信/2016年11月13日参照) ヨブは常に、心を
神に向けた言動を取っていた。 ところが、ある時、ヨブは、自分でも理解できないままに、財
産や、家族、健康を奪われた。 激しい苦しみの日々を過ごした。 
 
友だちからも「罪を犯したから罰を受けている。 罪を悔い改めよ」と因果応報の原理で責めら
れ、その上、神に叫んでも答えがなく悶絶するような苦しみであった。 少しの輝かしい風格も
見られず、絶叫される御子イエスのお姿に、まさか、あの御子イエスが、・・と同じように、まさ
かあのヨブが、・・・と友は思ったようである。(ヨブ2:12) もちろん、御子と同じレベルの苦しみ
ではないかもしれないが、明らかに同じ種類の苦しみであったと思われる。
 
ヨブは死を願ったが、決して自殺は企てなかった。 神への信仰の中に踏みとどまっていたか
らであろう。 どのくらいの期間が経ったのかはわからないが、試練が過ぎ去った後のヨブは、
ますます神の前にへりくだり、前の半生でも神の祝福を受けて東の人々の中で一番の富豪で
あったが、それよりあとの半生は、所有物はすべて二倍に増され、140年ほど生き、子、孫、四
代の先まで見ることができた。 親戚や旧友たちも戻って来て、またつきあいが再会され、子ど
もも最初と同様十人与えられるなど、あとの半生をもっと祝福されたという。 
 
ヨブは徹底的などん底の中で、それまで以上の深いところにある自分の弱さ、無力さに気が付
き、その激しい苦痛と絶望を通して神に出会った。 それは「神を見た」と言い切ることができ
るレベルの深さである。 神を見た後の半生のヨブの心は、明らかに違っていたと思われる。 
普通の生活をしていても、常に神のところに留まり続け、神と共に歩んだであろう。 
 
今日、イエスほどでなくても、ヨブのような苦しみを通る者もいる。 真にキリストを信じている
者、神がキリストの弟子と認めておられる者たちは、一人一人に応じてではあるが、試練訓練
を通る。 そうして、鍛えられ、主イエス・キリストに対して確固たる信仰を持つ神の子として、キ
リストの弟子として整えられる。 ただ、ヨブのような苦しみを通る者には、何かしら神の特別な
ご計画があるようだ。 
 
いずれにしても、イエス・キリストは人の苦しみを身をもって体験されておられる方である。 だ
から、誰にもこの苦しみはわからないというような苦しみであっても、主イエス・キリストだけは、
それを理解してくださる。 そして、我々が求め続けているなら、必ずその人に応じた助けを与
えてくださる。 神には、一人一人に応じてご計画を持っておられるので、神がその人にとっ
て、一番良いと定めておられる時に、実に見事に助けを与え、約束のことばを完了される。 と
は言っても、試練の真っ只中にある者にとっては、通常の感覚では出口が見えない、いつまで
続くのかと嘆くほどの苦しみである。 
 
試練の真っ只中にある者に対してパウロは「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えること
のできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるよう
に、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(Tコリント10:13:新改訳)」と言っている。 
この箇所の、「脱出の道」は、口語訳、新共同訳では「逃れの道」となっている。 しかし、岩波
翻訳委員会訳1995では「出口」となっている。 そして、この「出口」は、原語のエクヴァシスで
は、試練を避けて通る「逃れ道」ではなく試練の真只中を通っていったのちにそれを突き破っ
ていく「出口」の意だという。 試練の真只中では、「出口」など見えない、先の見えない苦難
ある。 だからこそ逆に、「出口」が与えられるという約束のことばは慰めとなり励ましとなる。 
 
事実、主イエス・キリストは生きておられる。 神は、永遠の昔から永遠の未来まで存在され
る。(ローマ1:20) だからこそ、試練の真っ只中にある者も絶望のどん底にある者も決して失
望することはない。 必ず、「出口」から「脱出」させてくださり、立ち上がらせてくださる時が来
る。 だからこそ、苦しみのどん底からでも、「キリストと自分」、「神と自分」、「主と自分」という
一対一の「交わり」が確固たるものとなるように取り組んでいきたいものである。
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第二 5:21
   神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、
   彼にあって神の義となるためなのである。
 
★旧約聖書(新改訳) 詩篇13:1-4
  主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私か
  らお隠しになるのですか。 いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならな
  いのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおご
  るのでしょう。 私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてくださ
  い。私が死の眠りにつかないように。 また私の敵が、「おれは彼に勝った。」と言わないよう
  に。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。







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