めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年6月25日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「聖霊の内在」など、あれこれ思考してみる>


★新約聖書 ヨハネによる福音書 7:37〜39
   祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたし
   のところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から
   生ける水が川となって流れ出るであろう」。 これは、イエスを信じる人々が受けようとして
   いる御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかっ
   たので、御霊がまだ下っていなかったのである。
 
マタイ11章2節〜11節、ルカ7章18節〜28節に書かれているところを読んで、いろいろ考えて
みた。 バプテスマのヨハネは、イエスの先駆者として偉大な働きをしていたし、「見よ、世の罪
を取り除く神の小羊」と言ったり、「・・・水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方
が、私に言われました。『聖霊が・る方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見
えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』 私はそれを見たので
す。 それで、この方が神の子であると証言しているのです。・・(ヨハネ福1:29-36)」と言って
いる。 
 
そうであるのに、ヨハネは投獄され、獄中でキリストのみわざについて伝え聞くと、自分の弟子
をつかわして「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきで
しょうか」と問わせている。 それまではキリストの先駆者として毅然と立っていたヨハネだが、
心に揺らぎが生まれたかのようになったのは、どうしてかと祈りつつ、あれこれ考えていた。 
確かに、当時の人々にとって、イエスの言動は、きわめて新奇なものだったが(ルカ5:30, 33、
7:22、マタイ12:8)、ヨハネが期待していたのとは違っていたのかもしれない。 ヨハネはイエス
が、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることの
ない火で焼き払われる」メシアとして来られたと思っていたようである。
 
そのヨハネについてイエスは、「彼は燃えて輝くともしび(ヨハネ福5:35)」と言われ、「女の産ん
だ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者
も、彼よりは大きい。(マタイ11:11)」と言われた。 バプテスマのヨハネと天国で最も小さい者
の違いは何であろうか。 
 
イエスは、「よくよく(まことに、まことに:新改訳)、あなたに言っておく。だれでも新しく生れなけ
れば、神の国を見ることはできない」、「よくよく(まことに、まこと)あなたに言っておく。だれで
も、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。(ヨハネ福3:3,5)」と言われ
た。 この「水と霊」の解釈は、教会、キリスト者(クリスチャン)によって、いろいろ違いがある。 
「水」を洗礼の水と解釈している教会、キリスト者(クリスチャン)も多いようだ。 また、「水」
「その腹から生ける水が川となって流れ出るようになる。 これは、イエスを信じる人々が受け
ようとしている御霊をさして言われたのである。・・・(ヨハネ福7:38,39)」というみことばから、
「水」「聖霊」を指しているという解釈もある。 著者もそう思う。    
 
イエス・キリストが十字架で死んでくださり、3日目によみがえられ、昇天された。 残された
我々イエス・キリストを真に信じる一人一人に、ご自分と同じような働きをする「助け主」すなわ
ち、「聖霊」を送ってくださるとの約束がある。 人は聖霊によって新しく生まれることができ、神
の子とされ、聖霊によって悟りが与えられ、聖霊によって「アバ、父よ」と呼ぶことができ、礼拝
をすることができるのである。(ヨブ32:8、ローマ8:15) 
               
以上のことから、バプテスマのヨハネと天国で最も小さい者の違いは、聖霊が内在しているか
どうかではないだろうか。 いつ「聖霊が内在する」のかは、これもまた教会、キリスト者(クリス
チャン)によって、いろいろ違いがあるようだ。 イエス・キリストを信じ救われた時に「聖霊」
その人の内側に住んでくださるという主張、中には洗礼(水のバプテスマ)を受けたときに「聖
霊」が内在されるという主張もあるようだ。 ただイエス・キリストを信じ救われる」ことにおい
ては、神から見られてそうであるということが重要かと思う。 
 
そのことについてこういう話しを聞いたことがある。 数十年も前のこと。 信者(救われる人)
を増やすためにバイトをしながら一生懸命に伝道しておられた牧師がいた。 証しを本に出さ
れたりもしていた。 著者は、その本を読んだことがあるが、その牧師がその教会に招聘(しょ
うへい)されるまでのこと、教会に来てから伝道のこと、キリストから受けた恵みのことなどが書
かれていたと思う。 絵に画いたような立派な証しだったと思う。 ところが、その教会の長老た
ち、信者たちが有名な神学校卒の牧師を招聘(しょうへい)することになったようで、結果的に、
その牧師は追い出されたという。 
 
すると、その牧師は隣町へ移動し、その教会や長老たちの悪口を書いて、近辺の教会にFAX
したという。 その後、ある世界各国にも集会を持っている団体の交わりの中に、その牧師は
入られたと聞いた。 その団体の代表者とも言える人が、その牧師に会ったとき、その牧師は
救われていなかったと言う。 そして、その団体に入って救われてすぐに、病気で亡くなったと
いう。 亡くなる前、自分はそれまで救われていなかったが、本当に救われたと言ったという。 
この話しを聞いたとき、「イエス・キリストを信じ救われる」ことについて考えさせられた。
 
さて、旧約時代にも「聖霊」は一部の者たちに授けられた。 ただ、旧約聖書では「聖霊」という
呼称は用いられておらず、「霊」とか「神の霊」、「主の霊」と書かれているが、明らかに「聖霊」
のことである。 モーセにはが授けられていた。 民数記11章16,17節に書かれている70人
の人にも、が授けられた。 それは、神が彼らと意志の疎通を可能にするためだった。 ギ
デオンについては、「主の霊がギデオンに臨んだ」と書かれている。(士師記6:34) 他、オテニ
エル、エフタ、サムソン、アサフの子孫であるレビびとヤハジエル、エゼキエルに主の霊が臨ん
だことが書かれている。(士師記3:10、11:29、U歴代誌20:14、エゼキエル11:5)  ダビデに
ついては、「主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。(Tサムエル16:13)」と書かれている。 
しかし、サウルのように、その人が神を悲しませるならば神の霊はその人から取り去られるこ
とがあった。 旧約時代は、聖霊が人の内に住むということは、限定的であり、一時的なもの
がほとんどだったようだ。 聖霊が人の内に来てくださることは、イエス・キリストが昇天された
後からのことである。 神のご支配の仕方が変わり、新しい時代に入ったのだ。
 
また、新約の今の時代、キリストを信じたときに「聖霊」を受けることと、「聖霊のバプテスマ」
いう働きのため「聖霊」に満たされる(注がれる)ことの2種類あるという解釈がある。 また、そ
れらは一つだという解釈をしている教会やキリスト者(クリスチャン)たちもいる。 いずれにして
も、人に「聖霊」が注がれると確かに変えられる。 ペテロやヨハネたち12弟子たちも弱々しく
臆病な者であったが、ペンテコステの日、「聖霊」が注がれた途端、毅然と信仰に立っている。 
弟子たちの語るメッセージも力強く人をキリストに引き寄せる力がある。(使徒2章) 弟子たち
の様子はまるで変わった。 このように「聖霊の内在」ということは、とても重要なことであり、尊
い恵みであるということだ。 
 
パウロは「御霊(聖霊)を消してはいけない。」と言い、「神の聖霊を悲しませてはいけない。」
言っている。(Tテサロニケ5:19、エペソ4:30)と言っている。 「消すな、悲しませるな」というこ
とは、そういう可能性があるということだ。 「聖霊を消す、悲しませる」ということは、神との交
わりもできないということであろう。 本物のキリスト者(クリスチャン)であるなら、「聖霊」を受け
ているであろうから、このことには、よくよく気を付けたいものである。 「聖霊を消す、悲しませ
る」要因となる「罪」だけでなく、「心の奥底に潜む思い、考え、願い、感情、・・・」なども吟味す
るために、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、絶えず祈り、主が望まれる祈りが
できるようになって、ますます深く、主と交わり、主を知っていきたいものである。
 
★新約聖書 テサロニケ人への手紙 第一 5:19
   御霊を消してはいけない。
   
 
 



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