めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年3月5日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<キリストと一つになって、神の御前に歩むことについての思考>


★旧約聖書 詩篇 56:13 
   あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいま
   した。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。
 
★旧約聖書 ミカ書 6:8
   主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられる
   のか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと
   ではないか。
 
新約聖書 ガラテヤ人への手紙2章20節「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」とある。 こ
れは、「キリストと自分が一対一の関係」となり、更に「キリストと自分が(霊において)一つにな
る」こと、それを足場として日々歩むことが、真にキリストを信じて「神の子」とされた者の生き
方であるということだ。 神の恵みやあわれみを体験的に知れば知るほど、キリスト者(クリス
チャン)は、「我が内におられるキリスト様・・・」と感謝と共によく褒め称える思いが心の底から
湧きあがってくる。
 
結局、「キリスト」が明確に、自分の内(心の奥底、霊)に据えられることが必要であるということ
だ。 意識するしないにかかわらず、そこに堅く据えられた「イエス・キリスト」を土台、足場とす
る人生を歩むことが大切であるということだ。 そうするなら、いろいろな形で、神のみわざ、恵
みを体験し、主イエス・キリストを実感的に深く知っていくことになる。 もちろん、一人一人に応
じての神からの試練訓練、試しも受けるようになる。 多くの教会が、「自分の口で、イエスは
主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あな
たは救われる。(口語訳:ローマ10:9)」とあり、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われ
る。(ローマ10:13)」、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われま
す。(使徒16:31)」などの「救い」「信じる」ことに関するみことばから、一旦、主イエス・キリスト
を信じて救われたなら、たとえ何があっても何をしたとしても決して救いを失うことはないと主張
しているという。 また聖霊を受けたなら、聖霊は決して去って行くことはないと教えている教会
もあると聞いたことがある。 
 
しかし、聖霊は、いつも自分の思い、考えを最優先し続けている者の内に留まることなどできな
い。(マタイ7:21) それは、神に逆らっていることになるからだ。 パウロやペテロたちが言う
「主イエス・キリストを信じるなら救われる」、「信じる者は皆、イエスによって義とされる。(使徒
行伝13:39)」などのことばの「信じる」は、我々が思っている以上に、レベルが深いのではない
かと思う。 もちろん、主を信じた最初の頃は、赤ちゃんが「オギャー」と生まれたのと同じよう
なものなので、当然、「信じる」ことも浅いレベルであろうが、本当に「神の子」となったのであれ
ば、「信仰」も「霊」も成長していく。 
 
成長していくにおいて、神は、「神の子」に訓練や試練を通させる。 「神の子」であるなら、そ
れらの訓練試練、試しに失敗するときがあったとしても、神は必ず、その「神の子」を立たせら
れる。 その「失敗」さえ、「益」とされる。 パウロやペテロたちは、キリスト者、教会に向けて
手紙を書いている。 だから、「主を信じる」というレベルは未信者や群衆のようなキリスト者(ク
リスチャン)が思うほど浅くはないと思われる。 何よりも大事なことは、「主イエス・キリストを信
じている」と神に見なされていることである。 ちなみに、「群衆のようなキリスト者(クリスチャ
ン)」について(めんどり通信/2009年3月8日/2009年2月8日参照。
 
さて、「キリスト」が明確に人の内側に据えられていることについて、「アブラハムとサラの改名」
から考えてみたことを「めんどり通信/2017年1月29日2月5日で書いた。 それぞれの中か
ら一部抜き出してみる。 17章で、主は、「アブラムをアブラハム(創世記17:5)」、「サライをサ
ラ(創世記17:14)」と改名を命じられた。 「アブラム」に、日本語で「ハ」ヘブル語では「ヘイ」
という1字が与えられて、「アブラハム」となり、「サライ」は、ヘブル語のヨードという1字が省か
、その代わりに「ヘイ」の1字を与えられて「サラ」になったという。 このように、2人とも
語のヘブル語では「ヘイ」が付く。 この「ヘイ」は、ヘブル語の「ハーラフ」の頭文字で、「ハーラ
フ」とは「歩む、歩き回る」という意味の動詞だという。 アブラハムとサラが改名することで与え
られたへブル語の「ヘイ」は、「あばら骨」の形をしているという。
 
「あばら骨の形へブル語の(ヘイ)」が与えられたことにより、人に与えられている「自由意
志」を正しく使えるように、神が責任をもって、訓練し導いてくださるということではないだろう
か。 そして、この「「あばら骨の形のへブル語の(ヘイ)」は、「キリスト」を表わすのかもしれな
い。 男と女が、キリストによって「一体」となるだけでなく、「男と女」、すなわち「人」が、「キリス
ト」と「一体(一つ)」となって、「神と交わる」こと。 「キリスト」と「人」が「一体(一つ)」となって、
「神と共に歩む」こと、神がご計画してくださったのではないだろうか。 アブラハムとサラの
改名は、新しくされた者が、神の責任において、罪の入った人を作り変え、成長させ導いて整
えてくださることを示しているのではないだろうか。 以上である。
 
アブラハムとサラは、神に選ばれており、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれている。 「あばら
骨の形のへブル語の(ヘイ)」が与えられたアブラハムは、「キリストと一つになって、神の御前
を歩き回る」、すなわち「神の御前に歩んで行った」。 「神の御前に歩む」こと、「神と共に歩
む」ことは、「共におられるキリストから目を離さない」ことでもある。 これが、本当の「キリスト
信仰」であり、「真のキリスト者(クリスチャン)」ではないだろうか。 「真のキリスト者(クリスチャ
ン)」は、外側の行ない、すなわち、伝道をし、奉仕をして主のために働いているとか、人間が
できているとか、そういう外側で判断できるものではないと思われる。 外側から見たなら、欠
点が目立ち、不完全な者と思えるかもしれない。 
 
アブラハムは改名後、既に完全な者であったというわけではない。 「アブラム」から「アブラハ
ム」になって、「神の前を歩み、全き者である」ことを、アブラハム自らの意志で、自発的に「信
仰」を働かせて、神の御前に歩んでいき、「神の約束」を、「信仰」をもって自覚しながら生きる
ことが必要であった。 それは、「主なる神を信頼する」ことになる。 それこそが、神が我々に
望まれていることではないかと思う。 そのような者の全存在を、神が責任を持ってくださるの
である。 
 
福音書以外の新約聖書は、主のために働くこと(伝道や奉仕)、教会の建て上げなどについて
書かれているが人の生涯の歩み方」という視点で見たとき、旧約聖書に登場してくる人物の
生涯から学ぶjことができる。 20年以上も前に参加した聖会で、病がいやされたことや奇蹟が
あらわれたことなどを証ししていたクリスチャンたち、また、その聖会で奉仕していた牧師さん
たち、手をあげて賛美歌を力いっぱい歌っていた聖歌隊やクリスチャンたち、・・。 彼らの顔を
見た時、「この人たちの普段の生活はどうなのだろうか。 日々の生活はどうなのだろうか、と
思ったことを覚えている。 
 
主イエス・キリストを信じて主のために働いている、教会で礼拝や奉仕をしていると言っても、
教会へ行かない日、伝道などの奉仕をしていない日など、ふだんの生活の中で、本当に「共に
おられるキリストから目を離さない」ことを自覚しているのかどうか、そのことを吟味することが
大切なのではないだろうか。 「あばら骨の形のへブル語の(ヘイ)」が与えられたアブラハムに
ついて書かれているところを読むと、アブラハムの普段の生活が想像できる。 普通の生活、
日常生活で、神の御前に歩み、神と共に歩んでいるアブラハムが目に浮かぶ。 とにかく、
我々も、「神の御前に歩む」こと、「キリストから目を離さない」こと、実行しつつ「主なる神を
信頼する」日常生活を送っていきたいものである。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 7:21
   わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におら
   れるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。




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