めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年2月26日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<アブラハムの甥ロトからいろいろ思考してみる>


★旧約聖書 詩篇 105:4
   主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。
 
★旧約聖書 箴言 4:25
   あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。
 
●聖書の登場人物の生涯から、あらゆることを学ぶことができる。 その中で旧約聖書創世記
に登場するロトから、いろいろ思考してみる。 ロトについては、おもに創世記13章、14章、19
に書かれている。 ロトはアブラム(17章でアブラハムと改名)の甥である。 アブラハムが神
からの召命を受けて、父テラを先頭に「カルデヤ人のウル」を出立したとき、ロトも共にいた。
(創世記11:31) 「カナンの地」へ向かう途中の「カラン(ハラン)」に滞在している時、父テラが
死んだ。 その後、75歳のアブラハムは、彼に語られた主のことば従って、カナンの地に行
こうとして「ハラン(カラン)」を出発したが、ロトも一緒に出発した。(創世記12:1-5) 
 
アブラハムは、カナンの地に入り、なおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けたが、この地に激
しいききんがあったので、エジプトのほうにしばらく滞在した。 エジプトでは、サライ(17章でサ
ラに改名)の美しさがゆえの出来事があった。 その出来事は、アブラハムにとってもサラに
とっても、ある意味、命がけだったが、主の介入によって結果的には、アブラハムは経済的に
更に豊かな恵み(羊の群れやろばなど:創世記12:16)を受けた。 その時、一緒にいたロト
も、アブラハムのゆえに恵みに与ったようである。
 
創世記13章。 アブラハムとサラは、エジプトのパロから得た多くの物を携えて、彼がかつて天
幕を張ったベテルとアイとの間の場所まで来た。  ロトもアブラハムと共にいたから多くの物を
持っていた。 しかし、彼らの財産が多すぎたため、その地では一緒に住むことが出来ず、そ
の上、アブラハムの羊飼いとロトの羊飼いが言い争うようになった。 それで、アブラハムがロ
トに別れることを言い、ロトに土地の最初の選択権を委ねた。 それは、アブラハムが神に委
ねていたからできたことである。 ところが、ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡す
、その一帯が、エジプトやエデンを思わせるほどに、よく潤っているのを、自分の目で見て好
ましく思えたので低地を選んだ。 ここで、「目を上げて(13:10)」というヘブライ語の表現は、
分で決定権を持って自分の目で見て決めようとする態度のことだと言う。 
 
ロトは、ウルを出立した時からずっとアブラハムと一緒に行動を共にしてきた。 だから、いろ
いろな出来事を通してアブラハムとサラが信頼している「主なる神」を知っていたはずである。 
また、ロトが財産を多く得たのは、「アブラハムのゆえに」ということもわかっていたと思われ
る。 しかし、自分の羊飼いが、アブラハムの羊飼いと言い争ったときも、ロトのへりくだった態
度が見受けられない。 アブラハムと対等であるかのような態度のように見受けられる。 アブ
ラハムから、別れることを言われ、土地の選択権を優先するようにアブラハムから言われた時
も、結局、一点のへりくだりも見えない。 さっさと自分で選び、そこで神に祈り委ねることもしな
かった。 
 
だから、アブラハムと別れたロトは、ソドムが、経済の豊かさに安逸をむさぼっていたことや、
男色を行なうなど神に忌み嫌われる状態であったことを知っていたけれども「繁栄している」
いうことで、自分の心の奥にある「欲」で低地を選んだと思われる。 ただ、全く神を知らないわ
けではなかったので、最初はソドムに入らず、ソドムの近くで天幕を張った。 しかし、ソドムに
入るのは、時間の問題だったようだ。 
 
創世記14章。 カナンが戦場となって、ケドルラオメル率いる東軍と死海同盟軍(ソドム、ゴモラ
など)との戦いで、死海同盟軍が敗れたとき、このときソドムに住んでいたロトは、財産もろとも
捕虜として連れ去られた。 カナン軍の逃亡者がアブラハムのもとに来て、そのことを知らせた
とき、アブラハムは彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ロトとすべての財産、
女たちや人々をも取り戻した。 ケドルラオメル率いる東軍を追いやった。 ロトは、アブラハム
が主が戦われると信頼していたこと、また主はアブラハムのその信頼に応えられたことを知っ
ていただろうか? 「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければなら
ない。」(出エジプト14:14)」
 
創世記19章。 神がソドムを滅ぼされるため二人の御使いを遣わされた。 ロトはソドムの門
のところにすわっていた。 それは当時では、ある程度の地位を得ていたからだという。 ロト
は彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。 丁重に客人として
迎えたが、ソドムの町の若い者から年寄りまでの男たちが、男色を行なうためロトの家に押し
かけた。 その時、ロトは御使いたちの不思議な力を見た。(19:11) 
 
御使いたちは、ソドムとゴモラを滅ぼすことをロトに告げ、ロトや身内の者を、皆この場所から
出て行くよう促した。 ロトは嫁いだ娘たちの婿たちに、出て行くことを告げたが、婿たちには、
冗談のように思われた。 御使いは、婿たちのところから戻って来て、ぐずぐずしていたロトの
手と彼の妻の手と、ふたりの(未婚の)娘の手をつかんで、連れ出し、町の外に置いた。 御使
いが「山に逃げなさい。」と言うと、山までは無理、わざわいが追いついて、死んでしまう、と主
を信頼せず、もっと(ソドムの)近くの小さい町(ツォアル)に逃げたいと「主(御使い)のことば」
より自分の考え、願いを優先させた。 「山に逃げなさい。」と言われたのだから、ロトが山に着
くまで、すなわちロトに危険がおよぶことがない所に着くまでは決して裁きは起こらないのに、
主なる神を信頼することができなかった。 
 
「滅ぼす」と訳されている動詞「シャーハット」(19:13, 13, 14, 29)は、ノアの洪水の時にはじめて
使われる動詞である。 他滅ぼす」と訳された「ハーファフ」が3回出てくる。(19:21,25,29) ソ
ドムとゴモラは、神によって徹底的に滅ぼされたということであり、そこから、「アブラムのゆえ
に」ロトは救われたということである。 財産が増えたことも失った財産を取り戻したことも捕虜
から解放されたことも徹底的な滅びから救われたことも、すべて「アブラハムのゆえに」、「アブ
ラハムのおかげ」なのである。 「神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出さ
れた。(口語訳:創世記19:29)」書かれている。
 
「アブラハムのゆえに」、愚かな言動が許され、弱い信仰が許され、むしろ助けを与えられ、あ
われみを受けている、というところに注目すべきだろう。 「アブラハムのゆえに」があるから、
町中、罪に汚れた状況のソドムに住み、ロトの判断力、感覚が麻痺していた可能性がある中
でも、「不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていたことは事実であろう。(Uペテロ
2:7) ソドムの人たちから「よそ者」となじられているのは、百%ソドムに染まっていない、少し
は、主なる神への「信仰」が残っていた証拠かもしれない。(創世記19:9) ただ、このことも、
「アブラハムのゆえに」、「アブラハムのおかげ」の恩恵かもしれない。
 
ロトのことから、いろいろなことが学べるが、最も大切なことは、「神はアブラハムを覚えて、そ
の滅びの中からロトを救い出された。(19:29)」ということではないだろうか。 「アブラハムの
ゆえに」それは、アブラハムのロトに対する「とりなし」があったからである。 主と親しく交わ
るアブラハムの「とりなし」を神は聞き受け入れてくださっていたからである。 もちろん強い信
仰でなくても、「主のことば」に素直に従える「信仰」は必要である。 ロトは、御使いが「ソドムと
ゴモラを滅ぼす」との「ことば」を信じた。 ためらいがあり、ぐずぐずしていたものの、うしろを
振り返らなかった。 最低限、そういう従順は必要ではあるが、何と言っても、「アブラハムのと
りなしのゆえに」、「アブラハムのゆえに」が重要なのである。 だから、ロトは主のあわれみを
受けることができたのである。
 
同様に、救われた者が、「◇◇◇のゆえに」と主に見られるほどキリストと明確につながること
が重要である。 そのような者の「とりなし」、「とりなしの祈り」効果がある。 主が聞き入れ
てくださるからだ。  「とりなし」をする者、すなわち、だれがとりなしをするのか、どんな者がと
りなしをするのかが大切である。 すなわち、「とりなす者」がどれほどキリストと固くつながって
いるかが鍵である。 「神はアブラハムを覚えておられた。それで、・・・」と同様、「主は◇◇◇
を覚えておられた。それで・・・・」と言われるほど、キリストと親しく深く交わった者の「とりなし」
を主の方が望まれている。
 
また、ロトが「アブラハムのゆえに」、神のあわれみを受けたとしても、神の恵みの中に留まる
ことができなかったことを見ることができる。 それは、歩みの中で、肉(生まれながらのもの:
思い、考えなど神に逆らう性質)が切り取られていなかったからだ。 だから、主を信頼しきるこ
とができず、どんなことも自分が最優先で、自分の考え、欲望が判断の基準だった。 
 
しかし、自分が最優先、基準ではあるが、すぐに人に影響される。 ロトは、「カルデヤ人のウ
ル」を出る時も、「カラン(ハラン)」を出る時も、アブラハムに語られた「主のことば」を聞いてと
いうよりも、アブラハムに影響されて、出立したと思われる。 ソドムで、婿たちは、神がソドム
を滅ぼされることは「戯れごと」と受け取ったが、婿たちの所から戻って来たロトは、御使いが
「さあ早く出なさい」とせきたてても「彼はためらっていた」。 この「彼はためらっていた」は、
ヘブライ語原典では「彼はぐずぐずしていた」であるという。 婿たちの「戯れごと」という言葉に
影響されたと思われる。 だから、逃げる時、遠くの山より、近くの町に逃げたかったのかもし
れない。 ソドムでの生活に若干ながら、未練があったのだろう。
 
こうしてみると、ロトは、アブラハムに語られた「主のことば」も聞き、主のみわざも目の当たり
に見て体験し「アブラハムのゆえに」であっても、神のあわれみと恵みに与り、徹底的な破壊
の中から救われ、アブラハムに対する幸いな主のご計画の中に、ロトも入れられていたが、
なる神の影響を受けていない。 主と一対一でつながっていない。 「アブラハムのゆえに」とい
うことは、とても大きなことであるが、「アブラハムのゆえに」救われ、あわれみと恵みに与って
も、直接、主とつながること、主の恵みの中に留まり続けること、もっと大きいことである。 
重要なことである。 大きな体験をして破壊の中から逃れさせていただいた後、主を見て、主に
信頼した歩み方をするかどうかは、ロト自身の責任である。 それは、我々にも言えることだ。 
そのことを、しっかり覚えておきたものだ。
 
★旧約聖書 イザヤ書 59:16
   主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救
   いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。




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