めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年1月15日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
キリスト者として、スタートすることについて:アブラハムの歩みから思考してみる>


★新約聖書 テモテの手紙 第二 2:8
   私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キ
   リストを、いつも思っていなさい。
 
★新約聖書 マルコによる福音書 12:30
   心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
 
●アブラハムの生涯からは、いろいろ学ぶべきことが多いが、創世記のアブラム(改名後:アブ
ラハム)について書かれている11章12章から、キリスト者(クリスチャン)として、スタートすること
について、いろいろ思考してみた。 
 
アブラハムが生まれたのは、「ウル」という町。 父テラが70歳のときであった。 ところが、アブ
ラハムの兄弟ハランが、「カルデヤ人のウル」で死んだ。(創世記11:26-28) アブラハムが神
からの召命を受けて、父テラを先頭に「カルデヤ人のウル」を出立し、「カナン」の地へ向かっ
たが、彼らは途中の「カラン(ハラン)」まで来て、そこに住みついた。
 
その後、アブラハムは、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが
示す地へ行きなさい。」という主のことば従って、アブラハムが75歳のとき、カナンの地に行
こうとして「ハラン(カラン)」を出発した。(創世記12:1-5) 
 
ここで、アブラハムが、主のことば聞いたのは、「ウル」であるという解釈が多い。 事実、ス
テパノは、「アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現
われて、 『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け。』と言われ
た」語っている。(使徒7:2,3) ただ、創世記12章1〜4節のことばからすると、アブラハムが、
主のことば聞いたのは、ハランにいたときである。 「カルデヤ人のウル」でも語られ、「ハラ
ン(カラン)」でも語られたのであろう。 いずれにしても、「神からの召し」が与えられたのは、ア
ブラハムである。 
 
この「ウル」の場所については、 キリスト教会では、今までずっと、シュメールを治めたウル第3
王朝の首都「ウル」とされ、アブラハム一族が「ウル」を出たのが、ウル第三王朝が滅んだ時か
もしくは、滅亡が迫っていた時と言われていたようである。 
 
しかし、近年、アブラハムの故郷と言われている「ウル」が、シュメールの首都「ウル」ではなく、
別の場所の都市として理解する人たちが現われたという。 彼らは、アブラハムの故郷の「ウ
ル」を、ハランから東に150km程の地域としているという。(「The Moody Atlas of Bible Lands」
より) 聖書で、アブラハムに関しての「ウル」については、「カルデヤ人の(カルデヤの)」との
明記がある。(創世記11:28,31、15:7、ネヘミヤ9:7) 
 
歴史的に見れば、カルデヤ人がメソポタミヤ南部にまで勢力を伸ばしたのは起源前10世紀頃
であり、それ以前にシュメールの首都「ウル(メソポタミア最南部)が、「カルデヤ人のウル」
呼ばれるはずがないということである。 起源前10世紀には、カルデア人勢力は、メソポタミヤ
北部までしかなかったという。
 
また、年老いたアブラハムが、息子イサクの嫁探しのために自分の家の最年長のしもべをア
ブラハムの故郷へと遣わせたが、そのしもべが行った所は、アラム・ナハライムのナホルの
町、すなわち、ハラン地方であった。(創世記24:10) このように見ると、アブラハムが生まれ
たメソポタミア北部の「カルデヤのウル」という町は、ハランから東に150km程の地域かもしれ
ない。 いずれにしても、「カルデヤのウル」は、月神礼拝の中心地であり、「ハラン(カラン)」
も、やはり月の神を礼拝する、偶像の町だったようである。 「カルデヤのウル」「ハラン」とい
う町は、宗教的、商業的に、結びついていたという。
 
父テラたちが、「カルデヤのウル」を出た経緯や詳細は、聖書には何も記されていないが、少
なからず、テラはアブラハムに語られた主のことば受け入れたのであろう。 しかし、テラの
出立を後押ししたのは、主のことば以上に、アブラハムの兄弟であり、孫ロトの父親である、テ
ラの息子ハランが、テラの存命中、「カルデヤのウル」で死んだことかもしれない。 だから、息
子と同じ名前の町「ハラン(カラン)」で留まったのかもしれない。 また、テラは、偶像を作り、
偶像を拝む者だと言われていたので、「カルデヤのウル」と同じように、偶像を中心として成り
立っている町「ハラン」の生活に慣れ親しんでいたからかもしれない。(ヨシュア記24:2,3)
 
いずれにしても、アブラハムたちが「カルデヤのウル」を出る時には、「テラは、その息子アブ
ラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼ら
はカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。」と、アブラハムの父
テラが先頭だったことを聖書から見ることができる。(創世記11:31) 「神からの召し」、「主の
ことば」を与えられたのはアブラハムであり、当時、すでに結婚して一家を構えていたが、父テ
ラが存命していたので、父テラが家長であった。 だから、父テラが死んで、創世記12章から信
仰の父アブラハムの生涯が始まっている。 
 
このように見る時、アブラハムが、「ハラン」にいた時に、「神と一対一の関係」になったものと
思われる。 そういう意味では、やはり「ハラン」が、アブラハムにとって神と共に歩む」
タート地点になったのではないだろうか。 「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て」とい
うことば、イエスが、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた
者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」と言われたことばに通
じる。(マタイ19:29) 
 
アブラハムが、「神と共に歩む」ためには、故郷、父、父の家と「分離」する必要があったという
ことである。 そうすれば、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名
を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創
世記12:2,3)」ということである。 もちろん、いずれの場合も、主からのことばに従った者は、
信仰の試練を通り、「霊と信仰」が成長し、強くなっていく。 
 
「神と共に歩む」ことは、「神と一対一の関係になる」ということであり、そのことを持続すること
である。 そして、「神と共に歩む」ためには、肉のものを「捨てる」という「訣別」「分離」「決断」
が必要である。 そのように見ると、アブラハムは、「ハラン」で、「神と共に歩む」スタートを切っ
たと思われる。 もちろん、パウロが言うように、アブラハムも、神のご計画の中では、「母の胎
内にある時からアブラハムを聖別し、み恵みをもって」召しておられた。(ガラテヤ1:15) しか
し、アブラハム自身が、明確に「神と共に歩む」、「神と一対一の関係になる」ために、自ら、
「主のことば」に従い、肉からのものと「分離」したのはハラン」であろう。 その後、ロトと「分
離」することによって、更に「神と一対一の関係」、「主と自分の一対一の交わり」が深まったと
思われる。
 
我々、キリストを信じる者も、「神と共に歩む」ために、「キリストと自分」、「神と自分」、「主と自
分」という「一対一の交わり」、「一対一の関わり」を持つ時があるということだ。 その時が、本
当の意味で、「神と共に歩む」ためのスタートを切ることになる。 主なる神ご自身の方が、
我々一人ひとりと、「一対一の親密な関係」を築きたいと願っておられる。 だからこそ、我々
は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、いつも主を仰ぎ見て、「神
と共に歩む」ことに全身全霊を尽くして取り組んでいきたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 105:4
   主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。
 
 
 



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