めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年12月25日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「一つになる」から、いろいろ思考する>


★新約聖書 ヨハネによる福音書 17:20〜23
   わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のた   
   めにもお願いします。
 
   それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つと
   なるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あな
   たがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。 
   
   またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたち
   が一つであるように、彼らも一つであるためです。 
   
   わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなる
   ためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように
   彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
 
●キリスト教会では、兄弟姉妹が一つになることの大切さを説教されている。 「わたしと父と
は一つである。(ヨハネ福10:30)」という主イエスのことばから、キリストを信じるキリスト者(クリ
スチャン)たちも「キリストの信仰」、「神を愛する愛」、「互いを愛する愛」によって「一つになる」
べき、「一致する」べきであるという。 確かに、その通りではあるが、このことは、言うは易く行
うは難しである。 案外、口先だけで終わるか、聖霊の介入ではなく、人間の肉による努力が
介入していることの方が多いかもしれない。
 
当時、イエスは我々の目で見ることができた。 見えるイエスと見えない父なる神は「一つ」で
あったのと同じように、イエスが昇天された後、見える我々キリスト者と見えないキリスト(聖霊)
が、キリストとしっかりつながり続けていることが、まず根本としてあるべきだ。 そうすると、キ
リスト者(クリスチャン)たちも、主が望まれているような「一つになる」ことができるであろう。 
 
だから、主キリストを信じているクリスチャンと呼ばれる者だからというだけで、父と御子イエス
のように「一つになる」ことはできない。 しかし、教会に所属し通っているから、クリスチャンだ
から「一つ」になっている。 「一致」していると勘違いしているキリスト者(クリスチャン)が多いと
いうのが現状ではないだろうか。 もちろん、そのように取り組んでいる者たちがいることも事
実である。 
 
主が語られたことばや聖書のことば原語や英語など知識的に豊富なクリスチャンたちが、い
ろいろ解釈されているのを見ると本当に学ぶところが多い。 それらの解釈を読むとすごいと
思う。 ただ、思うに、その方々みなが、キリストとしっかりつながり続けているのだろうかと、
と思った。 以前、めんどり通信/2016年5月15日で書いた★ビジョンFに書かれたBの大きな
門に入って行った人たちは、聖書みたいな分厚い本を持っていたというが、そのような方々が
多いのではないかと思った。 その方々は、聖書の知識には秀でておられるが、キリストとしっ
かりつながり続けていたわけではないようだ。 
 
★旧約聖書 詩篇133:1に「見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであ
ろう。(口語訳)」 ★「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、な
んという楽しさであろう。(新改訳)」ということばがある。 この箇所においても、兄妹たちが「一
つになっていること」は、麗しいことだ書かれている。 
 
ただ、人が地上で「和合」しても、それが神に対しての「反逆」という一致の「和合」であるなら、
麗しいものではない。 創世記に出てくる「バベルの塔」も、いわば神に対しての挑戦ともいうべ
きものだった。 ノアの息子ハムの未子ニムロデは地上で最初の権力者となった。(創世記1
0:8) ニムロデは、後の二大強国であるアッシリヤ帝国とバビロン帝国の首都となる「ニネベ」
「バベル」の町を建てた。 当時、人々は、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。 
彼らは、「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地
に散らされるといけないから。」と言うようになったと書かれているが、これは明らかに神に対す
「反逆」である。 しかし、「バベルの塔」を建てようとした者たちは、「一致団結」をしていた。 
神に対しての「反逆」という一致の「和合」である。
 
そんな彼らの「一致団結」した行動に対して、神は彼らが一つになることがないように、ことばを
混乱させて、意思が通じないようにして、彼らの「一致団結」を崩された。 それで、彼らは町を
建てることができないようにされ、全地へ散らばっていくことになったという内容である。 
 
「人間の一致団結」は、決してしあわせをもたらす「和合」ではない。 「兄弟たちが一つになっ
て共に住んでいる」なら、しあわせなときもあれば、いろいろ問題が出てきて、いがみ合うときも
あろう。 この詩篇133:1は、よくキリスト者たちが一緒になって集まって礼拝することが、しあ
わせというように解釈されているのを聞く。 当然、神を礼拝する。 そこには、主がおられるの
「和合」があるという。 
 
確かにそうである。 しかし、兄弟というとき、イエスは神の家族の「長子」という立場であられ
る。(ローマ8:29) そして、キリストを信じる者たちを兄妹と呼んでくださる。 このように見る
時、「兄弟が和合して」というとき、まず、「長子のキリスト」「兄妹(弟)のキリスト者」が、「一つ
になる」ということが先決のように思われる。 それを根本とした上で、「主にある兄弟姉妹たち
が一つになる」のである。 そうでなければ、「キリストにあって」と口では言いながら、実際はキ
リストから離れての「人間の一致団結」になってしまう恐れがあるからだ。 なかなか難しいもの
である。 
 
実際、使徒行伝に書かれている初代エルサレム教会では、兄弟たちが共に住んでいた。 資
産を共有し、毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をと
もにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれたという。(使徒2:44-47) ところが、教会が大
きくなるにつれ、問題が起きた。 教会は成長していくものだから、内外に問題が生じても当然
であるという意見がほとんどだと聞く。 なるほど、そうかもしれない。 だからと言って、完全な
教会になるために、兄弟姉妹が心を一つにすることに奮闘することも大切かもしれないが、や
はり、それ以上に大切なのは、まず一人一人がキリストと一つになる」ことに奮闘することの
方が重要と思うのだが、どうだろうか。 
 
キリスト者たちが一緒になって集まって礼拝することが、しあわせということ以上に、日々の生
活の中で「キリストと自分」が「一つ」になって、歩んでいることの方がしあわせのような気がす
る。 通常、神を礼拝するためにクリスチャンは、教会に週に一度は集まる。 また、教会は、
様々な種類の聖会や集会を開いて、クリスチャンたちが一所に集まる。 その時を、神への礼
拝として兄弟姉妹が「和合」していることを、神が喜んでおられると言う。 本当にそうだと言え
るところもあるかもしれないが、そうとも言えないとも思う。
 
20年以上前、教会から、いろいろな聖会や集会に参加させてもらったことがある。 聖会では、
多くの教会から信者たちが参加し、聖歌隊が、いろいろな楽器で演奏し、見事な歌声で賛美歌
をうたい、それに合わせて集まっていたクリスチャンたちが賛美歌を歌っていた。 数人の牧
師の説教があり、証しがあり、皆で主をほめたたえていた。 当然、参加した著者もその中に
いたのだが、当時、心の奥底に、「これはこれですばらしいことかもしれないが、この人たちの
日々の生活は、どうなのだろうか。 本当にキリストと一つになって歩んでいるのだろうか。 
主は今、喜んでおられるだろうか。」などの思いがあったことを覚えている。 
 
また、その聖会に参加した者たちには喜びはあったが、主への感謝、畏敬の念を抱いて、純
粋に喜んでいたというより、多くの人が集まって聖会が盛大なものになり、無意識にその喜び
に酔いしれていた部分が多いのではないだろうかと感じたことも覚えている。 約20年前、所属
していた教会を離れてから、いろいろな体験を通して主から教えられたことは、日々の生活、
普通の生活をしている中で、いつも「キリストと自分が一つになっていること」、「キリストにつな
がり続けること」の重要性である。 そのことが、根本にあること、そのことに取り組んでいくな
ら、主が本当になさりたいと思われることを示し、教え、導いてくださるということである。
 
「わたしは彼らにおり(ヨハネ福17:23)」と主は言われたが、「キリストが一人一人と共におられ
る」なら、「完全に一つとなることができる」と仰せられている。(ヨハネ福17:23) 結局、イエス
が語られた「わたしにとどまりなさい。」に行き着く。(ヨハネ福15:4) これが、我々が取り組む
べきことであり、キリスト信仰における重要なことである。 「主と一対一の親しい交わりを持つ
こと」、「主の中にとどまり続けること」が確固たるものとなっているかどうかを祈りつつ、ゆっくり
考えながら、この年を過ぎ越したいものである。
 
★旧約聖書 詩篇  27:4
   私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家
   に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
 
 
 
 



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