めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年12月18日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「生めよ。ふえよ。」から、いろいろ思考する>


★旧約聖書 ミカ書 6:8
   主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられる
   のか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと
   ではないか。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 17:9
  人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。<新改訳>
  心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知る
  ことができようか。<口語訳聖書>
 
●創世記を読んでいると「生めよ。ふえよ。」という神のことば気になったので、いろいろ思考
してみた。 創世記で、人に対して3度、仰せられている。 @アダムとエバを祝福して、「生め
よ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。
(創世記1:28)」 Aノアと彼の息子たちを祝福して、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、
空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐
れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。(創世記9:1,2)」 Bイスラエル
と改名を命じたヤコブを祝福して、「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、
諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムと
イサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。(創世記3
5:11,12)」
 
このように「生めよ。ふえよ。」ということばは、人間に3度語られている。 @アダムとエバのと
きに語られたことばは、神からの一方的な祝福であり、命令でもある。 まだ罪の入っていな
かったアダムとエバは、ただ素直に信じ受け入れたらよいことだった。 Aノアのときに語られ
たことばは、上記以外に「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。・・
わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。(創
世記8:21)」とも語られている。 ノアの洪水で、ノアとノアの家族8人と選ばれた生き物以外
の、それまでの人間、生き物のすべてを滅ぼされたが、洪水を通った8人に、アダムとエバの
時に全うできなかったこと、すなわち、祝福をやり直してくださった。 ただ、ノアは、アダムとエ
バと違って、箱舟を造るということに関して、いろいろ砕かれたと推測できる。 「砕かれ、信じ
受け入れる」ことは、単に「信じ受け入れる」というより、深みがあるように思われる。 
 
しかし、一度、人類に入ってきた「罪(原罪)」は、洪水によっても拭い去ることができなものであ
ることを、神は知っておられた。 「罪」を拭い去ることができない、それは、すなわち、「人の心
は初めから悪い」ということである。(創世記8:21、エレミヤ書17:9) 悪と暴虐は、「罪(原罪)」
を持った人間が作り上げてきたものである。 事実、ノアもこの後、酒を飲んで分別を失い失
態をさらしてしまい、彼は息子に「罪」を犯させる要因を作った。 そのようなことなど人間の心
の奥底まで知っておられた上で、神はノアを祝福された。 それほど、人に対する「神の愛」
深かった。 いわば神の「祝福」は、神の「赦し」、神の「救い」と同義語(語形は異なるが、意味
が同じである)である。 
 
Bイスラエル(ヤコブ)のときに語られたことばは、アブラハムに語られた契約のことば再確
認である。 アブラハムに語られたことばは、@あなたを大いなる国民とする(子孫繁栄、創世
記12:2)、A地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(万民祝福、創世記12:3)、B
なたの子孫にこの地を与える。(国土獲得、創世記12:7)である。 これらのことばは、神の約束
であり、神からの一方的な「恵みの契約」である。 アブラハムが神に祝福されたのは、アブラ
ハムを通してすべての者が神の祝福を受けるという神のご計画があったからだ。 
 
ただ、ヤコブ(イスラエル)の場合、アブラハムに語られた契約のことば再確認するまでに
も、それ以後にも相当な砕きがあった。 ヤコブの生涯は、波乱万丈だったが、その人生は苦
難による砕きによって神への確固たる信仰と愛と神の恵みと祝福に満たされていった。 ノア
同様、もしかしたら、それ以上の砕き、すなわち、神の御手の下での試練・訓練があったと推
測できる。 やはり、「砕かれ、信じ受け入れる」ことには、深みがあったと思われる。
 
旧約時代に語られた「生めよ。ふえよ。」は、そのことば通り、次第に子孫は増えていった。 
そうして「イエス・キリスト」が生まれた。 「生めよ。ふえよ。」の目的に達したのではないだろ
うか。 キリストは「肉によればダビデの子孫として生まれた。」(ローマ1:3、Uテモテ2:8) ま
た、この「生めよ。ふえよ。」に比較対照できる箇所(ことば)を新約聖書から考えてみた。
 
@イエスが、パリサイ人の中にニコデモというユダヤ人の指導者に、「まことに、まことに、あな
たに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われた。
(ヨハネ福3:3) A十字架にかかられ、3日目に復活されたイエスが、弟子のトマスに、「あな
たはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われた。(ヨハネ福
20:29) Bイエスが、天に上げられるとき、オリーブ山に集まっていた弟子たちに、「もう間もな
く、あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける」と言われた。(使徒1:5) そして、主のことば通
り、五旬節の日に、みなが一つ所に集まっていた、ひとりひとりが聖霊に満たされた。(使徒
2:1-4) 聖霊のバプテスマを受けたのである。
 
旧約時代が終わり、キリストが生まれてくださって、上記のことばが、ある意味、「生めよ。ふえ
よ。」に対応するものとして挙げてみた。 @どういう事情があろうとも、ニコデモは、目の前に
おられるイエスのことば自分で解釈せずに、ただ素直に信じ受け入れたらよいことだった。 
キリストを信じて、新しく生まれることが重要なのである。 A「あなたはわたしを見たから信じ
たのですか。見ずに信じる者は幸いです。」のことばは、トマスだけに語られたのではない。 
使徒たちもマグダラのマリヤたち女からイエスが、よみがえられたことを聞いても、この話はた
わごとと思われて、それを信じなかったからだ。(ルカ24:8-12) 使徒たちは、イエスの十字架
の時から、彼らはユダヤ人を恐れ隠れていた。 ある意味、そのことで砕かれた部分はあった
と思われる。 当時、キリストに従って行くことにおいても砕かれた部分はあったと思われる。 
「砕かれ、信じ受け入れる」ことは、単に「信じ受け入れる」というより、やはり深みがあるように
思われる。 キリストを信じて新しく生まれた者は、神の子としての訓練が始まるへブル12:5-
13)
 
しかし、やはり、アダムとエバ以来の「罪」の性質は、ひとりひとりに応じてではあるが、相当、
砕かれなければならないようだ。 それほど人間の「肉(生まれながらの性質)」は強く、キリス
トを信じ、働いていなかった(死んでいた)自分の「霊」が生かされ、砕かれて成長したとしても、
まだ、「自分(肉)」を押し通そうとすることがある。 自分が意識するしないにかかわらずに、
「自分」の思い通りにしようとする。 それでも、主なる神は、キリストを信じた者を見捨てず、ご
自身を正しく求めて来るようにと働いてくださる。 そのことに気づけばよいのだが・・・。 そし
て、その人の信仰ではなく、神から与えられる「キリストの信仰」に与ればよいのだが・・・。 
 
B「聖霊のバプテスマを受ける」と語られた主のことばは、ある意味、聖霊に満たされた弟子
たちが、聖霊の支配の中に入ったことを意味する。 しっかりと主の下に置かれたこと意味
する。 それは神の祝福であり、神のご計画であった。 キリストの弟子たちは、「聖霊に満た
される」までには、苦難と迫害があった。 復活のキリストに会ってから後、弟子たちは苦難と
迫害の連続であった。 それらのことは、彼らにとって、相当厳しい砕きとなったと思われる。 
いわば、自我が砕かれ、肉が切り取られる経験であったであろう。 神の御手の下での試練・
訓練があった。 「聖霊に満たされて」からは、更に厳しかった。 やはり、「砕かれ、信じ受け
入れる」ことには、相当な深みがあったと思われる。 キリストを信じて新しく生まれ、神からの
試練・訓練を受け、砕かれた者は、聖霊に満たされるのであろう。
 
上記の旧約聖書からの@AB新約聖書からの@ABの行きつくところは、イエスが語られ
「わたしにとどまりなさい。」ではないだろうか。 ダビデは、いのちの日の限り、主の家に住
むこと唯一の願いとした。(詩編27:4) 「神の友」と呼ばれたのはアブラハムだけである。
(ヤコブ2:23) ダビデもアブラハムも「主なる神と自分」という「一対一」のかかわり、交わりが
確固たるものとなっていたのである。 要は、完全に主の下にとどまり続けていたのである。 
結局、「神と自分」、「キリストと自分」という「一対一のつながり、交わり」が確固たるものになる
ことが大切であるということだ。 主は、「主の働き」よりも、「主にとどまり続けていたか」、「主
につながり続けていたか」を重要視される。 そのことを覚えて日々絶えず、主イエス・キリスト
から目を離さず、キリストと深く深く交わりを続けていくことに取り組んで行きたいものである。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:4,5
   わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木につ
   いていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしに
   とどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
  
   わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の
   中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたが
   たは何もすることができないからです。
 



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