めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年11月27日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<災害についての思考>


★旧約聖書 詩篇 23:4
   たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私ととも
   におられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
 
★旧約聖書 詩篇 46:1〜3
   神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。 それゆえ、われらは恐れ
   ない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。 たとい、その水が立ち騒ぎ、
   あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 1:7
   信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・
   キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
 
●近年、世界各地で自然災害が増加しているようだ。 日本だけで見ても、台風、地震、津
波、豪雨、土砂崩れ、火山活動の活発化、・・など日本列島はさまざまな災害に見舞われてい
る。 21世紀に入る前から台風は、段々と巨大化し、地震も規模が大きい。 その上、頻繁に
起きているように思われる。 ちなみに、1995年の阪神・淡路大震災、2000年10月の鳥取県
西部地震、2003年9月の十勝沖地震、2004年10月の新潟県中越沖地震、2011年の東日本大
震災、2016年の熊本地震など、1925年から2016年までに日本で発生したM7クラス(M6後半
含む)の地震は全部で49回あるという。
 
聖書にも多くの災いが記されている。 ソドムとゴモラの滅亡(創世記19章)出エジプトのとき
の十の災い、多くの時代に起こった飢饉、干ばつ、洪水など。 旧約時代の最大の災いと言え
ば、創世記に書かれているノアの洪水であろう。 この災害は、明らかに「神の裁き」だった。 
ノアの時代、地上に人が増え始めたが、人の悪が増大し、地は、神の前に堕落し、地は、暴虐
で満ちていた。 主は、地上に人を造ったことを悔やみ、箱舟に入ったノアとノアの家族の8人し
か生き残れないほどの大洪水を起こされた。 ただ、この洪水の後、ノアが祭壇の上で全焼の
いけにえをささげとき、主は、「わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたもの
を滅ぼさない。(創世記8:21)」とノアに一方的な契約(約束)をされた。 
 
地震も多く書かれている。(イザヤ29:6、エゼキエル38:19、マルコ13:8、黙示録他) 新約聖
書のコロサイ人への手紙1章16節には、「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見え
ないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られた。 万物は、御子によって
造られ、御子のために造られた。」と書かれている。 だから、主なる神が、災害や異常な自然
現象を防ぐことも起こすことも当然できるということである。 ただ、言えることは、人が罪深い
から災害、災難にあうというのではない。 このことは、イエスがそのように言われている。 ガ
リラヤ人のある人たちが、裁判官ピラトから処刑されたのは、彼らが罪深い人たちだったから
なのか、という問いに、イエスは、「そうではない。(ルカ13:2,5)」と否定された。 シロアムの塔
が倒れ落ちて18人死んだことも、彼らが罪深い人たちだったからではないと、はっきり言われ
ている。(ルカ13:4,5) イエスは、因果応報を否定された。
 
また、神以外に、そのようなことができるのは、サタンである。 なぜなら、サタンは、この世の
君(支配者)であるからだ。(ヨハネ福14:30) サタン自身も、「この、国々のいっさいの権力と
栄光は私に任されている」と言っているが、このことは事実である。(ルカ4:6) イエスが、風や
荒波、熱をしかりつけられると、風はやみ、波はなぎになり、熱はひいた。(マタイ8:26、マルコ
4:39、ルカ4:39) 風や荒波を起こし、熱を上げたのはサタンの仕業である。 ということは、か
つても起こり、現在も起こっている人を苦しめる理不尽な自然災害の多くは、サタンのしわざで
あると言えるだろう。 
 
しかし、主なる神が、なぜ、それを許されているのかは、わからない。 理由がわかっている場
合もあるが、わからないことの方が多いかもしれない。 モーセの時の十の災いは、エジプトの
王パロが神の警告に従わなかったという一つの理由があり、ソドムとゴモラの滅亡は、アブラ
ハムがとりなししても無理なほど彼らの罪はきわめて重かったという理由があり、ノアの洪水に
も我々がわかるように理由が記されている。 また、生まれつきの盲人というその悲惨さを見
た弟子たちが、「誰が罪を犯したからですか。この人ですか、その両親ですか」との質問に、イ
エスは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われる
ためです。」と言われた。(ヨハネ福9章) このように、若干、理由がわかっている場合もある。
 
しかし、ヨブの災難、災いなど、その理由が明確にわからないが、そのように災難、災害、災い
の理由が我々にはわからないことの方が多いのかもしれない。 それは、「神の領域」なのだ
ろうか。 ただ言えることは、神が望まれていることは、「ひとりでも滅びることを望まず、すべて
の人が悔い改めに進むこと」、「すべての人が救われて、真理を知るようになること」である。
(Uペテロ3:9、Tテモテ2:4)
 
さて、日本では、今後も大きな災害に見舞われることが予想されている。 南海トラフ地震、
首都圏直下型地震、大津波、富士山の大噴火、原発事故の放射能汚染などが近い将来発生
すると予想されているという。 聖書では、多くの箇所が「たとえ」として書かれているが、黙示
には、戦争やききん、地上、海、川に対する災いの幻や疫病などがこの地上で起こることだ
と書かれている。 ただ、これらは、実際、その通りのこともあるかもしれないが、「たとえ」とし
て書かれていることに注目すべきではある。 しかし、世界情勢を見ても、災害、それも大災害
は、地球上のどこにでも起こり得ることである。 今までとは違った、更に規模が大きく、人類
に多大な悪影響を及ぼす危険性があることも、多くの方々が言っているようである。 
 
「キリストを信じているから大丈夫」と軽い次元で言うのではなく、きちんと、備えをし、地域社会
やいろいろなかたちでの協力体制を取れるように準備しておくことは必要かもしれない。 「い
ざっ」というとき、どこに避難するのかをはっきりさせておくことは大事なことである。 体の命が
助かることは当然、第一に考えるべきではあろうが、もっと大事なことは、魂と霊が助かること
である。 すなわち救われることである。 
 
20年以上も前、こんな証しを聞いたことがある。 ある時、船(外国船?)が遭難した。 乗組
員、乗客はみな海に投げ出された。 投げ出された人たちは、遭難で壊れた船の残骸が浮い
ていたので、みな我先にとつかまれそうな木々などに必死につかまって救助を待っていた。 
そこに一人の男性のクリスチャンが、自分のすぐそばの人が、つかまる物がなくて今にも力尽
きて沈みそうになっているのが見えた。 クリスチャンは、その溺れかけている人に「あなた
は、キリストを信じて救われていますか」と尋ねた。 聞かれたその人は、「いいえ」と答えた。 
すると、クリスチャンは、「私は救われているから」と、自分がつかまっていた物を、その人に渡
して彼は沈んでいったという証しを聞いたことがある。 キリストの無償の愛、身代わりに愛
実行したクリスチャンということで証しを聞いたと思う。
 
この証しを改めて思い出したが、確かに、キリストの無償の愛、身代わりの愛があふれた行動
であると思った。 しかし、それだけでなく、このクリスチャンは、一番良いところに避難したの
ではないかと思った。 いわば、神を避けどころとしたか、彼の内から溢れんばかりの身代
わりの愛が出てきたのではないだろうか。 結果、それは、神が望まれ、神に喜ばれること
だった。 「いざっ」というときに、主のみこころを存分に行えるのは、ただ人が「救われていた
者」というだけでなく、常日頃から絶えず、主なる神との親しい交わりがあったからであろう。 
結局、「神と人(自分)との、一対一の関わり(交わり)」を揺るぎないほどに確固たるものにして
おくことが重要であるということではないだろうか。 今後、日本を含む世界情勢が、どのように
厳しい状況になったとしても、振り回されることなく、信仰の創始者であり、完成者であるイエス
から目を離さないで、主の御前にへりくだって、キリストと「真の交わり」を深くしていき、キリスト
にしっかりつながっていきたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 62:7
   私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
 
 



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