めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年10月9日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<奇跡についての思考>


★旧約聖書 詩篇 105:5、歴代誌 第一 16:12
   主が行なわれた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。
 
●今日、物理、化学、生物、地学などが隆盛を極め、宇宙に人が住もうかと言う時代におい
て、「奇跡」という言葉は、半ば、「死語」になりつつある現代、それでも、考え方、生き方がガラ
リと変わるほどの「奇跡体験」をする者もいる。 ちなみに、「奇跡」を辞書で引くと、「@ 常識で
は理解できないような出来事。  A 主にキリスト教で,人々を信仰に導くため神によってなさ
れたと信じられている超自然的現象。聖霊による受胎,病人の治癒,死者の復活など。神道
や仏教では,同様の現象を「霊験(れいげん)」と呼んでいる。(三省堂 大辞林(第三版)」、
@常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象。 Aキリスト教など、宗教で、神の
超自然的な働きによって起こる不思議な現象(goo辞書)」とある。
 
2013年11月28日に、奇跡体験!アンビリバボーという番組が、タイトル「独占取材!脳外科権威
が発表★死後の世界はあった」で、テレビで放映されたらしい。 ハーバード大学卒業後、25
年にわたって脳神経外科医として一線で活躍していたエベン・アレキサンダー博士は、長らく
「死後の世界」を否定してきた。 その彼が、2008年に急性細菌性髄膜炎という重い病にかか
り、、脳の新皮質に深刻なダメージを受けて、7日間こん睡状態に陥った。 絶望的な状態だっ
たので、医師から12時間後までに回復の兆しが見えなければ、抗生剤の投与を打ち切ると宣
告された。 それは「死」を意味していたので、病室では、エベンの最後を見届けようと、家族
や友人達が寄り添い、声をかけ続けていた。
 
ところが、タイムリミットが訪れようとした時、彼は目を覚ました。 さらに、後遺症も全くなかっ
た、これは世界で初めてのケースだったという。 退院後、エベン医師は、入院中の自分の脳
の状態を隅から隅まで徹底的に調べた。 そして、エベン医師は、あらゆる可能性を消去した
結果、「死後の世界は存在する」と結論づけたという。 いわば、臨死体験したようだ。 「死後
の世界は存在する」ということは、ある意味、「奇跡は起こる」ということでもある。 このことが
結論付けられるまでエベン・アレキサンダー博士が体験したことは、脳が起こした幻覚でも錯
覚でもない、科学で説明ができない「奇跡」「不思議」であったからだ。 「死後の世界は必ず
ある」ということを、京都大学の教授カール・ベッカー氏も、真面目に研究しているという。 
 
さて、聖書「奇跡」の記事が多くある。 ただ、「奇跡」が集中して行なわれた時代がある。 
旧約時代では、@モーセとヨシュアの時代、Aイスラエルの預言者エリヤとエリシャの時代、
B南王国ユダの王ヒゼキヤの時代、Cダニエルの時代に「奇跡」が多く行なわれたのを見る
ことができる。 「イエスのなさったことは、たくさんあって、もしそれらをいちいち書きしるすな
ら、世界も、書かれた書物を収めきれないであろう。(ヨハネ福21:25)」とヨハネは言っている
が、Dイエスの時代には多く行われ、使徒の時代にも多く行なわれている。(使徒行伝)
 
一部を簡単に挙げてみる。 モーセが紅海を2つに割る奇跡。(出エジプト14章15章) イスラ
エル人たちが、出エジプトするときに神がエジプトに対しては十の災い(裁き)を行なわれ、イス
ラエル人たちには「奇跡」を起こされたこと。(出エジプト1-13章) ヨシュアのとき、ヨルダン川
の水がせきとめられたこと。(ヨシュア記3章4章) エリヤとエリシャの時代には、いくら使って
も、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかったことや男の子の蘇生、らい病人のいや
し、悪い水のいやし、・・などの奇跡。(T列王記、U列王記) ヒゼキヤの時代には、アッシリ
ヤの大軍18万5千人を主の使いが全滅させるという奇跡、日時計の影が10度あとに戻るという
奇跡。(U列王記19章20章) ダニエルの時代には、法令に背いた罪を着せられ獅子の穴に
投げ入れられたダニエルが、獅子による何の危害も受けず、一夜明けてから無事助け出され
たという奇跡。(ダニエル書6章)など他にもある。
 
上記の時代以外にも、「奇跡」は行なわれたが、「奇跡」が集中しているわけではない。 それ
でも「奇跡」がある。 例えば、ノアの洪水で救われたノアとその家族が体験したこと。(創世記
6章-9章) 90歳という高齢で出産したアブラハムの妻サラの奇跡。(創世記17章-21章) ロバ
が口をきいたこと。(民数記22:28) ギデオンの羊の毛の奇跡。(士師記6章) ヨナが三日三
晩、大魚の中で生きていたこと(ヨナ書2:1〜10)などである。
 
イエスと使徒たちの時代においては、福音書使徒行伝に多く記されている。 尚、奇跡の中
でも特に大きな奇跡と思われる、蘇生、すなわち、人が生き返った奇跡聖書の中で7つ、もし
くは9つ書かれている。 @ツァレファテのやもめの息子(エリヤによる、T列王記17:22)  A
シュネムの女の息子(エリシャによる、U列王記4:35)  B会堂管理者ヤイロの娘(イエスによ
る、マルコ5:42) Cナインのやもめの息子(イエスによる、ルカ7:15)  Dラザロ(イエスによ
る、ヨハネ伝11:44)  Eタビタ(ドルカス)(ペテロによる、使徒9:40) Fユテコ(パウロによる、
使徒20:12)である。 また、それ以外にも、G死んだエリシャの骨に触れて生き返った人のこ
とが書かれている。(U列王記13:20,21) また、Hキリストが十字架上で死んだ時に、「墓が
開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。」と書かれている。(マタイ27:52)
 
それでは、「奇跡」は、ある日、突然、起きるものなのか?  それとも、状況、状態が、徐々に
徐々に良くなって、「奇跡」の方向へ向かっていき、そうして、ある時、「奇跡」が起きるものなの
か? 聖書の中の「奇跡」見ていくと、ある日ある時、突然、起きている場合と、神を心から
信頼して祈った結果、起きる場合があるようだ。 ただ、「ある日、突然、起きる」ことの方が断
然、多いと思われる。 また、「ある時、突然」という場合も、「起きなさい」とか「立ちなさい」とか
「歩きなさい」などのように「命令形」で語られた神のことば従った時、起きることも多いようだ。
 
「奇跡」は、神が人類に対して大きな働きかけをする時に集中して行なわれているように思え
る。 また、神に遣わされた人々の言葉やメッセージが、神からのものであることの「しるし」
して行なわれ、聞く人々が、それらを信じることができやすいために行なわれている。 「奇跡」
が行なわれることにより、「神の栄光があらわされ」、その神の栄光を見た人々に、「よみがえ
りの信仰を確信させるため」に行なわれているところもある。
 
マタイ14:22-33、マルコ6:45-51、ヨハネ福6:16-21に、イエスのガリラヤ湖上の歩行の奇跡
記されている。 あらすじは、こうである。 すでに暗くなっていたが、イエスは弟子たちを強い
て舟に乗り込ませて、先に向こう岸へ行かせた。 舟はすでに陸から離れていたが、逆風のた
め波に悩まされていた。 暗やみと突然の嵐に、おそらく舟も沈みそうになり、漁師だった弟子
たちでも、恐れた。 まして、そのような中で、突然、イエスが湖の上を歩いて来られたので、弟
子たちの恐怖は相当なものだった。 まさか、人が水の上を歩くなど考えられないことだったの
で、弟子たちは幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。 「わたしだ。恐れる
ことはない。」というイエスのことばに、弟子たちは、ほっとしたということが書かれている。 
 
この箇所から見ると、「奇跡」が起きるのに、状況、状態、環境が、徐々に徐々に良くなって、
そうして、ある日、「奇跡」が起きるということはないようである。 むしろ、この場面から見ると、
「奇跡」が起きる前に、まわりの状況や状態が前より一層悪くなっている。 そして、最悪のとき
、イエスによる「奇跡」が起こされている。 だから、「奇跡」が起きる前、状況、状態が、徐々
に徐々に良くなって、そうして、ある日、「奇跡」が起きるということは、滅多にないことかもしれ
ない。 むしろ、「奇跡」が起きる前というのは、最悪の状態の時かもしれない。 だからこそ、
神の「奇跡」が必要になる。 
 
「奇跡」は人間から見れば、あり得ないこと。 しかし、神から見られたら、ただ当然のこと。 
神ご自身が語られた「ことば」を、その通りになさるから「神」なのである。 神の「ことば」には
「権威と力」があるからだ。(マタイ28:18、ルカ4:32,36、コロサイ1:16、2:10) また、「奇跡」
は、人が、「神からのことば」を与えられている場合、その「ことばが完了、成就した」ということ
は、「奇跡」が起きたことである。 神が、ご自身の「ことば」通りになさったからである。 キリス
ト者の中にも、神の「奇跡」を信じない者も多いようだが、過去の有名人のキリスト者が、「奇跡
は奇術やトリックの類ではなく、神の超常の力によって起こったものだとあくまで信じる。」
言ったが、同感である。
 
聖書に、他にも様々な「奇跡」が書かれているが、処女が子どもを生むことも「奇跡」であり、ひ
とりの人(イエス)が、人間に代わって十字架で死なれたことで、人間の罪の贖いが完了したこ
とも「奇跡」である。 3日目に復活されたことにより、イエスを信じる者たちが、「生きる、すなわ
ち、救われる」ことができることも「奇跡」である。 「十字架の死と復活」は、大きな大きな、そし
て、特別な「奇跡」である。 そして、その「奇跡」は成就され、実際となっている。 また、神は
「無」から「有」を呼び出され、天地万物を神の「ことば」で造られ、土地のちりで人を形造り、そ
の鼻にいのちの息を吹き込まれて、人は生きる者となったことも「奇跡」である。(創世記2:7) 
「奇跡」は、神のご計画の内あることであり、神の采配である。 
 
だから、「神の奇跡」は、今もある。 実在すると信じている。 必ず、主が語られたことばは、
成就し、完了の実際があらわれるものである。 主は、すでに我々のために、多くの奇跡を行
なってくださり、完了してくださった。 だから、「主から与えられたことば」、「ビジョン」、「霊的
感覚」、…が、未完了で終わるはずはない。 また、もし、「奇跡」の前兆があるとするのなら、
それは神から与えられた「ビジョン」や「霊的感覚」、「主からのことば」かもしれない。 そして、
それら、「ビジョン」、「霊的感覚」、「主からのことば」の通りの完了の実際を見た時、もしくは体
験したとき、その人は、そのような「奇跡」によって、神の栄光をほめたたえるであろう。 
 
とにかく、「奇跡」を見たとき、体験したとき、「良かった、感謝だ。」と表面的に終わるのではな
く、その奇跡の奥にあること、すなわち、主が何故、その「奇跡」を起こされたのか、「主が言わ
んとされていること」を悟っていきたいものである。 そのように悟ことが、本当の意味で、神の
栄光をほめたたえることになるからだ。 神のご計画が、いよいよ進んでいくことを願う。
 
★旧約聖書 イザヤ書 25:1
   主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは
   遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。
 
 
 



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