めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年9月18日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主が望まれる教会についての再考>


★旧約聖書 詩篇 127:1
   主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなけれ
   ば、守る者の見張りはむなしい。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 4:16
   キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、
   また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長
   して、愛のうちに建てられるのです。
 
新約聖書 ガラテヤ人への手紙を読んでいて、主が、建て上げようとされている教会につい
て、いろいろ考えてみた。 今までも、何回か「めんどり通信」で書いてきたが、改めて考えてみ
た。 「教会」とはギリシア語のエクレシア「召し出された者たち」「集会・集合」という意味であ
る。 主が「教会」について語られたことばは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」
である。(マタイ16:18) イエスが昇天された後、ペンテコステの聖霊降誕があり、初代教会が
誕生した。(使徒2章) その後、アンテオケの異邦人教会が設立された。(使徒11章) 
 
初代エレサレム教会に、教会堂はなかった。 時には神殿に集まり、時には誰かの家に集ま
り、時には講堂に集まった。 信じた者の群れは、自分たちの財産を売り、おのおのの必要に
応じて、皆がそれを分け合い、すべてを共有にしていたいうことが書かれている。(使徒4章) 
ただ、弟子たちがふえるにつれて、このことに関しても、毎日の配給のことで教会を分裂しか
ねない問題が起きた。(使徒6章) 使徒たちの提案によって、無事解決はされたが、教会が設
立されて、そんなに多くの時が経っていない頃に起きたことは、教会生活の難しさを垣間見る
ようだ。 
 
しかし、エレサレム教会は、重大な問題を解決できた。 その第一要因は、使徒を中心に、「一
人一人がキリストにしっかりつながっていたこと」であると思われる。 なぜなら、その後、エル
サレム教会は、アンテオケで、大ぜいの人が信じて主に立ち返った知らせを聞いて、バルナバ
を派遣したが、その時、彼は、「常に主にとどまっているようにと励ました」と書かれているから
だ。 この言葉は、決して口先だけではなく、当時のバルナバの言動から推測するのに、「常に
主にとどまっている」というのは、実際のことであったと思われる。(使徒4:36,37、11章)
 
最初の異邦人のアンテオケ教会は、バルナバとサウロという二人の指導のもとに、大きく成長
していった。 弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。(使徒1
1:26) 「キリスト者」と訳されている言葉は、今日私たちが用いている「クリスチャン」という言
葉の語源となったもの。 「クリスチャン(原語ではクリスティアーノス”キリストに従う者”という
意味)」とはもともと、キリスト党員を表すあだ名、ニックネームだった。 当時、アンテオケは、
人口は約80万人で、そのうち、約25%もの人たちがキリストを信じていたと言われている。 現
代の教会のような形態をとっていたかどうかはわからないが、「聖霊が・・・言われた。(使徒1
3:2)」と書かれていることから、聖霊が存分に働かれ、一人一人が主に留まることに専念して
いたことは事実である。
 
その後、パウロが第一次伝道旅行の時、ガラテヤの諸教会を建て、第二次伝道旅行の時、マ
ケドニヤ州のピリピやテサロニケ、アカヤ州のコリント教会を建て、第三次伝道旅行の時、エ
ペソに教会を建てた。 パウロは、キリストを信じた人たちを教え、彼らを教会として建て上げ
た。 ところが、早い時期に教会に問題が生じた。 第二次伝道旅行の時に建てられたコリント
の教会などは、パウロが、第三次伝道旅行の時、エペソに2年間とどまり教えていたときに、コ
リント教会から教会の実情を訴える手紙がパウロに届いた。
 
コリント教会はパウロが去った後 分派の問題、不品行、信徒同士が訴え合いの問題、礼拝
の秩序、結婚の諸問題、偶像にささげた肉など、いろいろな問題などが起きて、もめた。 その
上、パウロの信用を失墜するような誹謗中傷する ユダヤ主義者である偽教師たちが、コリント
の教会をあおっていた。 ガラテヤの諸教会については、パウロがガラテヤを去った後、ユダ
ヤ主義キリスト教の偽教師が入り込み、救われるためには「割礼」を受ける必要があると説い
て教会を混乱させていた。 
 
テサロニケの教会では、キリスト者たちは、「悪人」(ユダヤ人)たちから信仰生活を妨害されて
いた。 また、テサロニケの信者たちは、キリストの再臨が自分たちの期待通りにすぐに来な
いことやすでに死んでしまった信者たちはどうなるのかとキリストの再臨をめぐる混乱に陥って
いた。 エペソの教会では、真理からはずれていたヒメナオと異端の影響を受けてパウロが語
ることばに、激しく逆らい苦しめていたアレキサンデルが、人々の信仰をくつがえしていた。
 
いずれの教会も、誕生したばかりの時は、持ち物を分け合って助け合ったり、素直に使徒た
ち、指導者たちに従ったりして、成長していった。 ところが、キリストを信じる者たちが増え、
集まる人数が多くなるにつれて、いろいろな問題が生じて、教会は組織化され、監督や執事と
いう役職が生まれてきた。 多様な信者が増えてくるのだから、教会の制度化、組織化は避け
られないかもしれないが、当時の使徒たちがいなくなり、キリスト者が二代目、三代目となって
いくうちに、祈っているとは言え、教会の組織化、制度化の中に、人間の考えが巧妙に入り込
んできたように思われる。 
 
伝道者の書7:29では「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。」
と書かれているが、人間という者は、キリストを信じた時に持っていた、素直さ単純さ純粋さを、
維持していくことを、自らが、難しくしているのかもしれない。 使徒時代から、教会は、諸問題
やサタンの攻撃(迫害、異端をも含む)を受けてきた。 それらと戦うたび、ある者たちの「信
仰」は強くなっていったが、多くの者たちは、純粋に「信仰」が強くなったというより、教会の制度
化、組織化の中に「人間の考え」を混入させて、諸問題を解決し、サタンの攻撃を打破しようと
してきたのではないだろうか。 教会を良くしようという「善なる思い」をもって考え行動した者も
多いが、中には、その「思い」に、サタンが、「サタンの思い」を入り込ませるという、サタンの巧
妙な策略に乗った者もいる。
 
教会全体を歴史から見ると、時代が進んでいくごとに「教会」は、当初、「誕生した頃の教会」
変わってきたようにも思える。 もちろん、多くのキリスト者たちは、そのままにしておいたので
はない。 改革を行なったりと純粋な当初の教会のように戻ろうと取り組んできた。 それで
も、2千年経った現在、違ってきているように思われる。 人間的な力の組織運営になっている
教会が多いようにも思える。 
 
それでは、主が望まれている教会のかたちは、どのようなものであろうか? 初代教会におい
て何曜日に皆が集まったのか、週に何度、集まったのかは明確に書かれていない。(ローマ1
4:5) 当時、使徒たちやキリストを信じる者たちは、毎日のように集まっていたと思われる。
(使徒5:12) また、週の初めの日にパンを裂くために集まったことが書かれているが、ユダヤ
人の一日は、前日の日没から始まり当日の日没で終わる。(使徒20:7) 初めの日とは、安息
日(土曜日)が終わった後の時間、すなわち土曜の夜だという。 だから、土曜の夜にクリス
チャンの集会がもたれたのではないかと言われているという。(新聖書辞典より) 
 
「献金」について、新約聖書で「十分の一」という献金の率、数字は書かれていないが、レビ記2
7:30,32、民数記18:23-26、申命記14:22-29、マラキ書30:10から教会は、キリストを信じた者
「什一献金」(収入の十分の一を神に、実際は教会に献金すること)を勧める。 パウロは、
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。(Uコ
リント9:6,7)」と言っているが、それぞれの教会によって違いはあったとしても、大まかには似て
いる今日の「献金の仕方、あり方」を、本当に、主は喜ばれているのだろうかと考え込む。(め
んどり通信/2015年6月14日<「献金」「教会運営」「教会のあり方」についての思考>を参照)
 
教会の定義については、今までも今も、いろいろな意見があるが、イエスが言われた、「わたし
はこの岩の上にわたしの教会を建てる」というのは、「見える教会」世界各地で礼拝や宣教活
動をしているすべての信徒たちの総数)ではなく、ひとつの普遍的教会のことである。 パウロ
が、「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげること
にしたからです。」とコリントの教会について語っているが、ここで上げた個所の「花嫁」は、ギリ
シャ原語では、すべて単数扱いとなっているという。 「花嫁」と客観的に言っていることと、「花
嫁」が単数表現で あることから、これは、普遍的なひとつの教会のことを言っているという。
 
「普遍的教会」目に見えない。 「見えない教会」とは時と場所を越えて神の目による救いを
定められた人々の集合体を表わす。その中には、信仰に入った後に世を去った人々、まだ救
われていないが、今後救われる人々や生まれてない人々でいずれキリストを信じる人々も含ま
れる。 要は、「いのちの書」に名のしるされている人々の集合体である。(黙示録21:27) 
リストのからだなる教会は、からだが一つであるように、本来「一つ」である。 教会は「一つ」し
か存在しない。
 
使徒行伝時代から今日に至るまで、教会の建て上げに多くのクリスチャンたちは努力してきた
が、その教会は、 目に見えるこの地上の教会である。 その建て上げも大切ではあるが、た
だ、終末に入ったかもしれないと言われている今日、主が望まれている教会の建て上げは、
に見えない「一つのキリストのからだなる教会」なのかもしれない。 
 
こうしていろいろ考えていくと、主が望まれておられるのは、 結局、一人一人がキリストとしっ
かりつながり続けること、常にキリストに留まることが最優先だということではないだろうか。 
以前、著者が交わっている姉妹たちを通して与えられたビジョンに、日本中、世界中に散ら
ばっている「光の柱」が何本も立っていたが、この「光の柱」こそ、主が「呼び出された者たち=
教会(エクレシヤ)」である。 プラグがコンセントに差し込まれるような何らかの奇跡が起きる
から、「光の柱」が立て上げられるのである。 「光の柱」となるべき者たちは、聖霊がその人を
教えるであろう。(Tヨハネ2:27) その者たちは、キリストが第一、キリストを最優先、キリスト
に繋がり続ける者である。
 
いずれにしても、今後、聖霊の大いなる働き、奇跡を期待したい。 とにかく、我々は、しっか
り、「主にとどまり続けること」、「主につながり続けること」を、重要視していき、「キリストと自
分」、「神と自分」、「主と自分」という一対一の「交わり」が確固たるものとなっていることが足
場、基本となるように取り組んで行きたいものである。(めんどり通信/2016年6月12日/2016年
5月15日参照)
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第二 11:2
   私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがた
   を、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです



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