めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年8月7日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「主の再臨の時は近い」と2千年前から現在までも言われていることから思考>


★新約聖書(新共同訳) コリント人への手紙 第二 5:10
  なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい
  体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
 
★旧約聖書 詩篇 25:15
   私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。
 
●キリスト教会では、「主の再臨」について、見解が分かれている。 まず、「再臨」とは、裁きと
救いの成就のために、十字架で死なれ、3日目によみがえられて昇天された主イエスが、再び
この世に来てくださることである。 再臨の時がいつであるかによって、教会の見解は、おおよ
そ2つに分かれている。(@艱難前、艱難中携挙説。 A艱難後携挙説) 共通していること
は、「昇天したイエスが、再び来られる」ということである。 ただ、その時期について、イエス
は、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくともよいのです。それは、父が
ご自分の権威をもってお定めになっています。(使徒1:7)」と言われ、「ただし、その日、その時
がいつであるかは、だれも知りません。 天の御使いたちも子も知りません。 ただ父だけが
知っておられます。(マタイ24:36)」と言われた。
 
再臨に関して書かれている聖書の箇所は幾つもあるが、一部だけ書いてみる。 
★新約聖書 マタイによる福音書 24:42〜44
   だから、目をさましていなさい。 あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないか
らです。 しかし、このことは知っておきなさい。 家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると
知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしな
かったでしょう。 だから、あなたがたも用心していなさい。 なぜなら、人の子は、思いがけな
い時に来るのですから。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:3〜3
   あなたがたは心を騒がしてはなりません。 神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたし
の父の家には、住まいがたくさんあります。 もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょ
う。 あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがた
に場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。 わたしのいる所に、あ
なたがたをもおらせるためです。
 
★新約聖書 使徒行伝 1:10、11
   イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。 すると、見よ、白い衣を着
た人がふたり、彼らのそばに立っていた。 そして、こう言った。 「ガリラヤの人たち。なぜ天
を見上げて立っているのですか。 あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に
上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
 
★新約聖書 テサロニケ人への手紙 第二 2:1、3
   さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもと
に集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。・・・まず背教が起こり、
不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
 
★新約聖書 ピリピ人への手紙 3:20
   私たちの国籍は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになる
のを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力に
よって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
 
★新約聖書 へブル人への手紙 9:27,28
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリ
ストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うた
めではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
 
他にも「再臨」についての聖書箇所は多々ある。 聖書のことばを受けて、キリスト教会の長い
歴史の中で 「再臨が近い」ということを語った人が多くいた。 中には「いつ再臨するか」という
ことまで語る人が現われたという。 もちろん、主のことば(使徒1:7、マタイ24:36)があるのだ
から、そんなこと当たったためしはない。 ネットから得た情報だが、簡単に書いてみる。
 
★紀元999年の最後の日、ヨーロッパの多くの人たちは、財産を売り払い、教会に集まって主
イエス・キリストの再臨を待ったという。 紀元千年という新しい年の幕開けにキリストが再臨す
ると思ったからだという。 
★その後、約百年後にも、1240年頃にも、宗教改革の時代にも同じようなことがあったという。 
★マルティン・ルターは、「自分が生きているこの教会改革の時代に主イエス・キリストの再臨
は近い」と思っていたという。
★「1533年にキリストは再臨する」と教えた人もいたらしい。
★19世紀にも、「キリストの再臨は近い」と教える人たちが多く教会に現われたという。
★再臨の時を予測した発表を信じ、全財産を教会に奉げ、その日を待った人々もいたという。 
結局、予測された日に主の再臨はなく、奉げた財産も返還してもらえないということが歴史の
中で繰り返されてきたという。
★19世紀初め、ブレザレン派は「キリストの再臨が近い」との期待を表明し、キリストの再臨を
待ち望んで、世から聖別された人々として行動したという。
★20世紀に入って、「ムッソリーニは反キリストだ」とか「ヒットラーは反キリストだ」と言って、「キ
リストの再臨は1981年になる」と教会でも教えたりしていたという。
★著者は、以前(20年以上も前)所属していた教会でも「もう再臨は近い」ということをよく聞か
された。
★1985〜1986年頃の全米ベストセラーの1つに、「1988年にキリストの再臨が来る」と宣言する
本があったという。
★ハル・リンゼイも60年代の時から70年代にかけて「キリストの再臨は近い」とずっと訴え、『今
は亡き大いなる地球』は全米で1800万部を売るベストセラーとなり、続編『1980年代 〜秒
読みに入ったハルマゲドン』『新世界がくる』などヒット作を次々出した。
★特に20世紀のアメリカでは、「キリストの再臨は近い」という話が持ち切りであった。
 
上記から、パウロやペテロたちと長いキリスト教会の歴史の中で「再臨が近い」と語った人たち
の方向性が違うように感じる。 キリスト教会では、パウロやペテロや、初期の弟子たちの皆が
皆、キリストの再臨が、間近であるとは考えていなかったという見解がある。 パウロは、主の
再臨が間近だと信じていたテサロニケの人たちに宛てて、「・・・まず背教が起こり、不法の人、
すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ない・・(Uテサロニケ2:1-3)」と手紙を書
いているからだ。 
 
しかし、同じテサロニケ人に宛てた手紙4章17節「次に、生き残っている私たちが、たちまち
彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私た
ちは、いつまでも主とともにいることになります。」の箇所から、パウロは「自分が生きている間
に主の再臨がある」と考えていたと受け取っている教会、信徒も多いことは事実である。 
 
また、ペテロは、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎み
なさい。(Tペテロ4:7)」と言っているが、「・・主の御前では、一日は千年のようであり、千年は
一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせてお
られるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりで
も滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(Uペテロ
3:8,9)」とも言っている。 
 
いずれにしても、パウロやペテロたち、初期のキリスト教会の信者たちが、自分たちの時代に
「主の再臨」があると信じていた信じていなかったに関わらず、また、いつの時代にも「主の再
臨は間近だ」と声高らかに言う人が現われたり、そのような教理や運動が起きてきたが、事実
は、それから約2千年経った現在、再臨はまだである。 
 
このようにしてみると、キリスト教会の歴史の中で「再臨が近い」と語った多くの人たちは、自分
も他の人々も「再臨」に目を向けさせている。 「主、主ご自身」よりも「再臨」の方に焦点を定
めさせている。 「再臨」から「主が再臨」と、「主」を最優先した目の向け方ではなく、むしろ
「再臨」から「この世の終わり」とか「再臨の時期」に目を向けさせ、「主」「主ご自身」から離れさ
せているかのようにも思える。 主」「主ご自身」に目を向けるより、「再臨の時期」「この世
の終わり」のことの方が、興奮をおぼえ、人間の好奇心をあおることだからかもしれない。 
 
しかし、 パウロやペテロ、初期の弟子たちは 「再臨の日時」を憶測して そこに目を向けるので
はなく、また、「この世の終わり」を興味本位で取り上げるのでもなく、主のことばと主の御
心」、すなわち、「主、主ご自身」に焦点を合わせているように感じられる。 彼らは、「主イエ
ス・キリスト」から目を離さず、主に従って歩んで行った。 もちろん、パウロやペテロたちは「再
臨」は、必ず起こる神の定められた出来事として理解していた。 それでも、「主ご自身」以上
に大事なものはなく、尊い方はおられないことを痛感していた。
 
だから、確かに「再臨の時」は来るであろうが、大事なことは、ペテロやパウロが言うように、
みも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励むことである。(Uペテロ3:14) 
落ち着いた生活をすることを志し、自分の手で働くことである。(Tテサロニケ4:11) 心を整
え、身を慎み、やみのわざを打ち捨てて、光の武具、キリストを着ていくことである。 こういうこ
とを、パウロやペテロたちは、口で言うだけでなく、実践していた。 そうして、パウロは「私は勇
敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 今からは、義の栄冠が私の
ために用意されているだけです。(Uテモテ4:7,8)」と言い切ったが、我々も、寿命が尽きると
き、そのように言いたいものである。 そして、やがて、キリストの裁きの座の前に立った時、主
にほめられたいものである。
 
★新約聖書(口語訳) ペテロの手紙 第一 4:17
   さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとした
   ら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
 
 



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